ちょっといいですか?
学図研ニュース編 
第2回A「天心風彩の心」

「あなたの趣味はなんですか?」
初対面の人に、よくこんな質問をされる。
一種の社交辞令である。
普通は旅行だとか音楽鑑賞だとかスポーツ観戦だとか、
そういった答えを用意しているものだが、
私は多趣味であるために、そのような言葉の持ち合わせがない。
そしていつも私は、
どれについてどう答えてよいものやらと頭を悩ませた挙げ句、
体裁良く適当な答えを返してしまう。
相手にしてみれば失礼な話なのだが、
どう説明して良いかわからないものは仕方がないので、
それから付き合ってゆく中で、
私の好みの傾向や感覚の在り方を感じ取っていただく以外に、
伝える言葉が見あたらないのである。

そんな風に言ってしまうほど、私は昔から多趣味である。
天体(流星)観測に洞窟探検、
全天候型ハードキャンプに化石や鉱物採集(蒐集)、
和洋菓子作りにアロマテラピー、
サボテンから熱帯魚・フェレットの飼育、
グリーティングカード描きや雑文書き、
読書、献血、カラオケにオカリナ・鍵盤演奏、
建築探訪に巨樹・名水探訪などなどetc...
挙げ連ねるだけでキリがない。
これらをいちいち語っていたら、
とてもじゃないけれど1日で終わることはないし、
なにより相手が興醒めしてしまうだろう。

それに、今挙げたもののように、
趣味の分野を単語で言い表すことの出来るものとは別に、
どう簡潔な単語にしようとしても出来ない細かい趣味が、
まだまだ山のようにあるのだ。
例えば、突然意味もなく自転車で遠出したくなったり、
ぼ〜っと雲を見ながらとりとめもないことを考えたり……。
そういったことって、
あまりに個人的すぎて、
初対面の人に話すにはちょっとしたためらいを感じてしまう。

更に言えば、
前者のように「単語で表せる趣味」の根っこは、
後者のようなその人の趣味の感性、
いわゆる
「趣向(意味的には少し遠いんですが便宜的に使います/注1)」
に左右されるのではないかと、私は思います。
というのも、
同じ趣味を持っている人でも一人一人その趣向は違うけれど、
同じ趣向を持つ人であれば、
たとえ趣味が少し違っていたところで考え方の根本が似通っていて、
不思議と馬が合うものなのだ。
「趣味が合う」というのは、
細かい単語分野で括られることではなく、
結局はそういった感性の方向や波長の根っこが、
共鳴することなんじゃないかなと、私は思うんです。
そしてこのような趣向というのは、
言葉で表現出来るような簡単なモノではないし、
その人と長く付き合ってみないと絶対にわからない。
だから私は冒頭で、いつも頭を悩ませていると書いた。
自分のことを知ってもらうには、
一般に使われている「趣味(注2)」という言葉では、
いささか素っ気なく響いてしまうんですね。

何度もこの誌面で触れているように、
私は理性よりも感性で行動する人間でありたいと思っている。
言葉でどうこう言っている相手を見るよりも、
一緒に纏っている雰囲気や表情で人を判断することが多い。
だからこそ、自分も長い間一緒にいても飽きの来ないような、
そんな趣ある人間になりたいと常々思うのである。
それはもちろん、単に面白い話が出来るとか、
話題が豊富といった意味ではない。
ただ隣にいるだけで気分が落ち着くとか、
心が穏やかになるとか、そういう存在になりたいのだ。

そんなわけで私は、
自分をもっともっと色彩あふれる人間になるべく、
努力してみることにした。(笑)
それはもちろん知識量を増やすことではない。
私は、自分をもっともっと
普通に生活していたら見過ごしてしまうような、
季節の移り変わりや感傷を肌で感じる訓練(?)を、
してみようと思い立った。
そんな私の理想が今回の題名「天心風彩」なのだ。
自作造語の解意は気が退けるのだが、
『空に自分の心を映し、風に彩りを感じ取る。』
ということ。
目に映る全て風景をどう感じ取るか、
そこには必ず自分の心が反映していると、私は考えている。
悲しいときと嬉しいときで、
同じ風景がまったく違って見えるように。
そして、日常の景色に何の感傷も覚えないというのは、
自分の心自体が凍てついてしまっているという、
一種の危険信号なのだ。

今の都会にはいろいろな刺激がありすぎて、
不協和音を起こしている。
一つ一つの感覚がお互いに打ち消されて、
麻痺してしまっているのだ。
そんな刺激過剰の生活の中では、
身近な自然にさえ視野が及ばないことも多い。
そんな枯れた心で生活していても、
きっと息が詰まって疲れるだけだ。
雑念に駆られた刺激を少しづつ取り去って、
穏やかで豊かな「ゆとり」を取り戻して欲しい。

では、ちょっとテストしてみましょうか。
 ・今の季節が盛りの草花の名前を知っていますか?
 ・今の季節に見頃の星座を、神話を交えて話してください。
 ・空を見上げて、その色を他の人に伝えられますか?
 ・雲の形も様々あります、今朝の雲はどんな形でしたか?
 ・風にもいろいろ匂いがあります、
今の季節の風は、どんな匂いや温度を纏っていますか?

どのくらい答えられたでしょうか。
「名前は知っている」「ニュースで聞いたような」
というのは判定外。
自分で「これがそうだ」と、
識別できる事柄は思った以上に少ないのではないかと思います。
もちろん、ここでは知識が重要なのではありません。
雲を見て自分で勝手に名前を付けてみたり、
星を見て物語を作ってみたり、
花を見てその色やイメージから花言葉を連想したり、
その季節に咲く草花から季語を考えたり…。
そういった、いわば
“目に見えない空間”や“雰囲気”などに
自分なりの意味を見いだすこと。
それが風流の心だと、私は思うのです。

風流の心は、確かに生活とは直接関わってくることはありません。
だけど、無味乾燥で渇いた心に染みわたる、
そんな澄み切った湧き水のように心に彩りが添えられれば……。
見えないものが見えはじめると、
ほら、
忘れかけていた風景がたくさん目に飛び込んでくる!

『暑い夏の昼下がり、大粒の雨が降ったあと、
 遠い空に虹が浮かび、
 土埃の打ち据えられたアスファルトから、
 熱気と共にたちのぼるあの匂い。』
『夏の夜空にうっすらと浮かぶ月白の天河。
 しっとりと夜露に濡れた草の丘に寝っ転がった私達、
 手が届くほどに近い満天の星の中、 
 天頂のペルセウス座から幾筋もの流星が流れ飛ぶ。』
『コンコンと湧く泉の、
 冷たさをたたえて吸い込まれそうな透明感。
 手を涵してその柔らかな水をすくい、
 淡碧(あお)く澄んだ甘露が、
 乾いた喉を心地よく潤す。』
『強い日差しを避けて逃げ込んだ巨樹の木陰、
 ふと見上げれば緑の葉がさやさやと風に揺れ、
 木洩れ日だけでなく、
 葉を透過した薄緑の光も頬で踊っている。』

もうすぐ、そんな夏が来ます。
まとまった休暇が取れたなら、
是非、自分の心にリハビリをさせてやって下さい。
必要なのは好奇心、
そして、
穏やかに穏やかにものを見る心。

天心風彩は単なるものの見方。
そして今一番の、私の好きな趣味(?)なのだ。
この微妙な感性を解ってもらうには、
やっぱり言葉じゃ、伝わらない。
そう、一緒に遊びに出掛けよう!

「いつも心に風景を」、
それがきっと私なりの生活であり、恋愛であり、個性なのだろう。
この感性を共有できるような友達や恋人と、
たくさんの日常を刻んでいきたい。
そして、
そんな私に付き合って
天河(そら)を見てくれるような人が見つかったら、
きっと一生一緒にいたいと思うんだろうな。

《作者注》
1&2:『趣向』とは、趣味の感性と言うよりは、
「おもむき」や「趣意」を表す言葉。
また、本来は『趣味』という言葉の中に、
本文で使った『趣向』の意味、
つまり「好みの傾向や感性」という意味を
含んでいるんですが、、、。
あまり意識して使っている人を見かけないため、
便宜上、あえて別々の単語として分けて考えました。

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<note>
初出:1996.07.23
    学校図書館問題研究会 東京支部NEWS
    1996年7月号「天心風彩の心」
一部修正・再掲:2003.05.27
HP遊覧航路(同題)
【以下、修正後の文章】
加筆:1997.8.20 niftyパティオBNW(books network)/同題
改稿:1998.10.5 niftyパティオ来来軒/
    「私の一番大切にしていること」
再掲:2000.09.22 遊覧航路(同題)←読めます
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・さぁて、改稿版のHP掲載から約3年が経ちました。
 改稿後の文章は、かなりスッキリしてしまっていて、
 ちょっと物足りなくなったので、
 原版を掲載することにしました。
・掲載場所ごとに手を加えてしまうのが私の悪い癖なのですが、
 心の持ちようによって文章は変化しても、
 言いたいことの根本は、変わっていなかったりもします。
 この原版はいささか装飾過多な気がして
 あのように改稿してしまったわけですが、
 これはこれでまぁ、
 いいんじゃないかと。
・でもやっぱり、、、アクが強い文章だなぁと。(^^ゞ