▼井戸端ダァク談議▼ 第2回「入院日記(前編)」(1998春) 1998年の2月、私は持病の腰痛が悪化してヘルニアを患い、 1ヶ月弱の入院生活を余儀なくされた。 きっかけは前年の夏に起こした、些細なギックリ腰だった。 そのまま養生してさえいれば、 2ヶ月の通院で完治する程度の軽度なものだったのだが、 このとき私は大学3年生、運悪く学内で一番多忙な時期と重なっていた。 ゼミやサークル(こちらも地域調査関係)の仕事が山のようにあり、 役場だ!アンケート調査だ!露頭調査だ!図書館に缶詰だ! なんてやっているウチに加速度的に症状が悪化、 そして、年末に行われる論文大会を取り仕切る頃には、 既に左足に麻痺が出始め、治療は入院の手続きに切り替わっていた。 MRIと呼ばれる電磁波を使った筋繊維投影も2度やったし、 2度ほど転院もしている。 そして、気合いで後期試験を片付け、 春休みを待って入院に漕ぎ着けたわけである。 それが、入院までの簡単なあらまし。 そして、以下に続く文章は、 あまりにも暇な入院生活中に、 ダラダラと書き付けた日記からの転記である。 抜き出したのは、ハイライトとも言うべきオペ前後の記録。 ハッキリ申し上げて、かなり下世話な話です。 気分を害されるかもしれません。 私にしても、やっぱりちょっと恥ずかしいなんて、 今更ながらに思っていたりもします。(笑) でもまぁ、笑いは身を削ってナンボって所がありますから、 勢いのあるウチに書ききってしまうつもりです。 笑ってもらえれば、それだけでもう、しめたもの。(笑) 赤裸々で下世話な暴露話、開演です。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 『僕は正直なところ、入院という物に憧れてた。』 というのも、あまり重大な病気にかかったこともなく、大きな怪 我や事故を経験したことがなかったため、 「友達の前でぶっ倒れるって、1度やってみたいよなぁ〜。」 というぐらいの、ごくごく軽い気持ちで入院に望んだのである。 痛みから1秒でも早く開放されたいという気持ちもあったが、 どちらかというと、手術に対する心配よりも、 『ドラマで良く出てくる手術のシーンと同じかなぁ。』 という期待の方が強かった気がする。家で仏壇に向かっている という祖母の心配をよそに、 「ベットってフカフカ?」 「病院食ってマズイの?」 とか、 「尿道カテーテルって、そんなに痛いの?」 などと、まるで手術と関係ないところしか考えていなかったこと も確かだったのである。 入院当日、何もかにも初めてのことばかりで、 とても刺激が強かったのを覚えている。 点滴を刺したまま、 吊し棒をガラガラ引いてトイレに行ってみたり、 麻酔や抗生物質の検査・採血など、 「経験してみたかったこと」がたくさん出来て、 何故か嬉しかったものと記憶している。 そんな話を親にしたら、 当然のように「変な子ねぇ」と言われてしまったのだが。 というのも、 僕は、注射や外科手術などの、 体に針を刺したり切ったり縫ったりする、 いわゆる「体に傷をつける」ことにはほとんど抵抗がないのだ。 献血で注射には慣れているし、普通では考えられない不注意で2度ほど、 足の親指や目の上を縫っているので(*1)、 縫うことについても慣れていた。 血を見るのにも出すのも慣れているワケなので、 手術自体に恐怖を感じないのも僕にとっては当然なのである。 (かといって、自虐趣味や粗暴癖はありません。念のため。) それにもともと、 僕は「痛覚」というものが普通の人よりも鈍いらしくて、 刺そうが・切ろうが・縫おうが、 どうもあんまり「痛い」と感じることがない。 風邪でも、ちょっとぐらい熱が高くても痛みを感じないので、 いよいよマズイ状態になるまで放っておいてしまい、 寝込んで後悔するという具合なのだ。 今回も、麻痺が進行して左足の指の感覚が無くなるまで、 病状が進行していたらしい。 (5つの腰椎のうち、2つが重度ヘルニア、 2つが軽度ヘルニアだったそうです) ただ、唯一の不安をあげるとすれば、 親父は唾液腺の結石で切開した際、他の神経も切られてしまい、 舌の半分の感覚・味覚を共に奪われた経験があるということ。 部位が部位だけに、 「失敗されたら半身不随も覚悟しておけ。」 という話をさんざん聞かされていたため、 (悪戯に本人を不安にさせてどうするって、親父に逆に怒ったのだが) もしもの時の不安はなかったと言えば嘘になる。 それでも、僕は好奇心の方が先に出る性格なので、 実のところは手術を心待ちにしていたのである。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− そして、当日。 禁食を言い渡されて、朝から絶食。点滴を打って栄養補給。 中身は相変わらず、濃ゆいポカリスエットだ。 午後4時の手術開始を目途に、昼頃から準備が色々と始まる。 下剤を飲み、浣腸を打って腸内の余分な排泄物を取り除く。 僕はどうも、浣腸というのがキライだ。 無理矢理に出されると言うか、生理的に合わない。 「出なけりゃ出ないでいいぢゃん。」って看護婦さんに言った。 「もー、手術中に出ちゃったら困るでしょ。 肛門が緩みっぱなしになるんだからさぁ。」と、看護婦。 その後、背中を切るというのに、毛を剃られる。 (と言っても、体毛が濃いために背中だけ剃ったのだが。) 午後3時。 浴衣のような手術着に着替え、 第1段階の麻酔である筋肉弛緩剤を筋肉注射。 痛い痛いと聞いていたが、 歯医者の歯茎注射に比べれば大したことはない。 「ぽわ〜ん」とだるくなるけど、 ごく普通に話もできるし、意識もしっかりしている。 午後3時30分。 麻酔のチューブ確保のため、 8センチぐらいの長い針でブドウ糖の点滴が始まる。 鼻から胃にチューブを入れる。 胃カメラすら飲んだことないのに、 ストローぐらいの太さのチューブが鼻から突っ込まれる。 口につながる管の途中で血管が破け、出血。 平謝りする看護婦。別に良いけど、ちょっと痛い。 そのまま胃までチューブを通し、 中の胃液を注射器で吸い出す。 その後、水を注入して胃を洗い(冷たくって変な感じ)、 管は手術中の吐瀉物を吸い取るためにそのまま鼻に入っている。 なんか、異物感の強い妙な感じだ。 午後3時40分:病棟出発。 「ストレッチャー」と呼ばれる寝たまま運べる台に寝かされて、 点滴の管と鼻の管を刺したまま、看護婦さんに運ばれる。 「だいじょうぶですか?」とか言われながら、 看護婦さんに囲まれてエレベーターに乗る。 両親の心配顔とは、ここでお別れ。 しかし当人は、 「これって、ドラマに良くあるヤツじゃん!」 などと喜んでいた。 管が刺さっているので、この感動を伝えられないのが痛い。 運ばれた先はレントゲン室。 ここで、第2の麻酔「脊髄注射」を3本打つ。 真っ裸でレントゲン台の載せられ、足を抱えて達磨座りをさせられる。 イヤン、もうちょっと優しくしてよん。(爆) 意識はハッキリしているので、かなり恥ずかしい。 そして程なく、背中に【ブスリ】と刺さる感触。 痛くないが、嫌な感覚だ。 刺さったまま、レントゲンを撮る。 「幹部にちゃんと刺さっている」 という証明写真のような物だと説明される。 この時、周りを囲む看護婦さんは5名、 真剣にノートを取ってはいるものの、 真っ裸で寝かされる身としてはかなりツライ。 麻酔が効かないうちに、 「もう一本入れる管があるから。」と聞かされる。 ひょっとして、意識があるうちに尿道に管入れるの? と、不安になる。 そのまま麻酔が効いてくるまで、 ストレッチャーに毛布を引いて寝かされたまま、 手術室の前の廊下でかなり待たされる。 まだ、「手術中」の赤ランプは灯っていない。 (この麻酔はまだ全身麻酔ではないので、 意識は割としっかりしている。) どれぐらい時間が経ったかは解らない、 ふいに看護婦さんに囲まれたかと思うと、 【バタン】 と手術室の金属扉が開いて、 例の手術台の明るい光が眩しく僕の顔に近づいてくる。 「はい。意識は大丈夫ですか?」 青い手術着を来た麻酔係のお兄さんが、 ニコニコしながら顔をのぞき込んでくる。 『はい。大丈夫です』 「お名前は?」 『恩田です(まぁ、本名を言ったわけですが)』 「大丈夫。 先生が、ちゃーんとなおしてくれますからね。 安心して寝ていて下さい。 全身麻酔ですから、気が付かないうちに終わってますよ。」 『はい。』 「じゃあ、点滴の中に麻酔が入ります。 1・2・3で眠くなりますよ〜。 はい、いきますよ〜。 いち・にぃ〜〜〜〜〜〜・・・・・・。」 僕は最後までカウントを聞くこともなく、深い眠りに落ちていった。 (後編につづく) *1:河を堰き止めて魚を捕ろうと、 自分で持ち上げた石を足の上に落としてしまったこと。 (左足親指を3針/中学2年) 金属バットの素振りの間合いに飛び込んで、 眼鏡ごと振り抜かれた。 (左目の上を5針/中学2年)
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