【江戸前の海戦】2001/04/05〜2001/04/25

<前哨戦>
 2001/4/5、川崎より出立した「私が書くの」氏の水軍が
 
「美樹」氏の中央区に攻め込んだ。
 本拠地へ通じる唯一の道、品川埠頭沖を封じられた
「美樹」氏の水軍は、
 東京湾へ逃げることもかなわず、為す術もなく壊滅した。
 浦安にたどり着けたのは、中立である
恩田氏領の運河を、
 地図もなく闇雲に駆け抜け、運良く脱出できた数隻の船だけだった...


 このとき、中央区の周囲を囲むように領していた「恩田」氏は傍観を決め込んでいた。

 さらに「私が書くの」氏の船団は港区にも進出。その一部は台場を占拠した。
 「私が書くの」氏はこの台場に大々的に要塞を建設することを決めた。

<状況>
 「私が書くの」軍の主力は川崎市の12万。前衛として月島に7千5百を置き、
 台場守備隊は
1万5千
 
「美樹」軍の主力は江戸川の6万。別働隊として浦安に1万2千
 その周りに
「恩田」氏。江東区には4万、千代田区には4千
 その北には文京・台東・墨田などで
3万の軍がある。
 さらに西の渋谷区にも
1万8千からの軍がいる。

<外交交渉>
 「美樹」氏は先の戦いで中立の立場をとった「恩田」氏のもとに使者を使わした。
 「『私が書くの』の此度の襲来に対し、我らの窮地を知りながら、
 一切の関わりを避け、傍観した事は誠に遺憾である。 
 ただし、『恩田』家にも『恩田』家の御都合が御座候ことは承知しており申す。
 ならば、次なる時、我らの軍が『私が書くの』を攻撃するにあたり、
 我らの軍が江東区の運河を渡ること、
 我らの軍にも『私が書くの』にも手出しをしないこと、
 を約定なさるならば、此度のことは恨みに思わず。」


 「恩田」氏の思惑はこうだった。
 
12万もの大軍を有する川崎の「私が書くの」氏と直接事を構える事は避けたい。
 負けはしないだろうが、多大な犠牲を払うことになる。
 そこを他の勢力につけ込まれては危険だ。
 かといって私が書くの氏の勢力伸張を見過ごすことも、
 要塞を黙って完成させることも、江戸の覇者を目指すためには邪魔だった。
 ここで
「美樹」氏に恩を売っておくのもいいだろう。

 「恩田」氏の返書はこうだった。
 「委細構わず。」


<2001/4/24夜>
 台場要塞はほぼ完成した。
 あとは食料・火薬・砲弾などの物資を詰めることで、
 鉄壁の防御をほこるようになるだろう。
 川崎より大量の物資を搭載した船団が、
 ゆうゆうと、陸沿いに台場に向けて走っていた。
 この間、ライバル・
「美樹」氏は何の動きも見せなかった。
 20日前に壊滅した水軍がまだ回復できていないのだろう。
 川崎から台場まで、船ならばそれほど距離を感じない。
 輸送船団の提督もこの任務に余裕を持っていた。
 台場要塞を軸に、
 東京湾を制覇するという主
・「私が書くの」氏の戦略は、
 もう達成したも同然だ。


 輸送船団がやがて大井埠頭から品川埠頭にさしかかった。
 輸送船団の背後で何かが動いた。
 前方に何かが立ちふさがった。
 
「美樹」氏の水軍だ!
 浦安を出立した急ごしらえの水軍は、
 
恩田氏の運河を密かに抜け、輸送船団を待ち伏せしていたのだ。
 輸送船団の前後から
「美樹」軍が距離を詰めてくる。

 「私が書くの」軍はあまりにも油断していた。
 ほとんど護衛鑑をつけていなかったのだ。
 
「美樹」氏水軍は十数隻しかいないが、
 それでも輸送船で勝てる相手ではなかった。
 大量の物資を積んだ輸送船団は
美樹水軍によって拿捕されたのだった。

<2001/4/25>
 美樹海軍が台場に攻め込んだ。
 さすがに要塞の守備隊は油断はしていなかったが、
 物資のない要塞では多勢に無勢だった。
 川崎からの援軍を待って、
「美樹」水軍を挟撃するしか勝てる見込みはない。
 要塞の守備隊は早馬を送り(海は美樹水軍に征されている!)、援軍を待った。


<江戸前の海戦>
 台場要塞奇襲さるの報に接した川崎は、すぐに主力船団を北に派遣した。
 距離はそれほど遠いわけではない。一日で台場まで着く。
 要塞が落ちていなければ
美樹軍を挟撃できる。
 落ちていたとしても再度奪回すればよいのだ。
 負ける可能性などは微塵も考えていなかった。


 主力船団は最大速度で走った。
 大井埠頭を越え、品川埠頭を越えたところで、あと少しで台場だ、
 というところで、かなりの数の 船団がそこにいた!
 つい20日ほど前に壊滅したはずの
「美樹」水軍なのか?

 「私が書くの」船団は少し距離を置いて、対峙した。
 東からは有明の陸がせりだしており、西には品川埠頭がある、
 海の狭くなってきているあたりだ。
 この海峡が
私が書くの船団で埋め尽くされた。
 対峙する
「美樹」水軍「私が書くの」船団よりははるかに数が少ないのだが、
 この短期間に再編されたとは思えぬほどの数だ。


 まず気づいたのは前衛の船にいた見張りの一人だった。
 報はすぐ提督の元に届いた。
 敵水軍のほとんどは、先日台場に着いたはずの味方輸送船団だというのだ。
 輸送船団が裏切ったにせよ、拿捕されたにせよ、
 戦闘力のない輸送船が相手ならば、一突撃で撃破できる。
 提督は攻撃を命じた。


 それより一瞬早く、旧輸送船団が動いた。一糸乱れぬ動きで。
 やはりまず気づいたのは先ほどの見張りだった。
 「輸送船は互いを鎖で結びつけている。」
 船を鎖で結びつけるなどというのはナンセンスそのものだ。
 船にとって機動力がそがれるなどというのは、
 沈めてくださいといっているようなものだ。
 提督は勝ちを確信した。


 旧輸送船団は思った以上に早かった。
 まっすぐ
「私が書くの」軍に向かって突進してきていた。
 海流と、偶然の北風によって、驚くべき早さで迫ってきたのだ。
 旧輸送船団が、徐々に横に広がるように陣形を展開していたことも、
 砲撃手の遠近感を狂わせた。
 
「私が書くの」軍の砲撃は、その予想外の早さと動きで、まったく当たらなかった。
 それぞれの砲撃手が照準を修正していく間に、
 旧輸送船団の先頭と私が書くの軍の先頭とが接した。


 この海峡に大船団がひしめいているという状況は、
 鎖で結ばれている船団同様だった。咄嗟の小回りがきかないのだ。
 そのことに
「私が書くの」軍が気づいたのは、旧輸送船団が爆発したときだった。
 輸送船には大量の食料、そして大量の火薬が積まれていた。
 
「美樹」軍はその火薬利用した。
 火薬と燃えやすいもの全てを、輸送船団に仕掛けていたのだ。
 輸送船自体に攻撃力がなくとも、
 敵船団を包み込んで自爆すれば多大な被害を与えられる。
 船同士を鎖で結びつけてあるので、船の間を交わされることもない。
 爆発を食らうか、逃げるかしかない。
 あわてて船首を返そうとしても この密集した場所では味方船にぶつかりそうになる。
 攻撃したくても味方艦隊の中に入り込まれては下手に撃てない。
 各船長がどうすればよいのか一瞬迷っている間に、火柱は各所に飛び火していた。
 さらに一瞬後、
 パニックを起こした
「私が書くの」軍はそれぞれの船が勝手に進路を南にとり、
 逃げ出していた。


 品川埠頭付近の、海峡の大半に輸送船団が陣取り、火をあげている。
 互いの船を鎖で結びつけてあるので、火の壁のようだ。
 何隻かは船底が燃えて既に沈んでいたが、
 この水深の浅い海峡では、沈んだ船の上を越ええいくことは難しいだろう。
 船団と陸の間が少しあいているが、大軍が通れるほどではない。


 一方、「私が書くの」船団だが、
 火が燃え移った船も出ていたが、全く無傷な船もかなりあった。
 まだ士気も戦力も残っていた船たちはなんとか態勢を整え、
 再び北へ進路を取り始めた。
 だが、火柱を上げている船団の端を通るのはかなり難しそうだった。
 爆発を初めてからもうかなりにもなるというのに、
 今でも時々、散発的に小爆発が起きている。とてもではないが近づけない。
 この先の状態はまったくわからない。
 船団を組んでこの隙間を抜けるのは不可能。
 一隻づつ抜けていっても、その先に敵船がいれば各個撃破されるだけだ。
 提督はここでようやく、撤退の指令を出した。
 
美樹軍の勝利、である。


<2001/4/25深夜>
 美樹水軍は再度要塞を攻めた。
 要塞からは当然、火柱は見えている。そして、美樹海軍の再度の襲来である。
 援軍が来なければ物資の不足する要塞では勝てない。
 戦力的には互角以上のものがあったが、士気がもうダメだった。
 台場守備隊はその大半は脱出、月島隊に合流した。
 
美樹水軍もそれなりの被害は受けてはいたが、
 台場を占領することに成功したのだった。



<エンディング>
 輸送船団の火柱は、翌日の昼頃まで燃えていたという。
 そして、その明かりは、関東全域から見ることができたという。



                                   (解説:若酔)


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