【浅間山東麓の戦い】2001/05/02
<美樹氏の東征>
2001年5月2日、長野・松本を発した「美樹」軍5万5千は、
上田よりの1万2千と合流し、東へ、北佐久へと行軍した。
向かう先には「恩田」軍6千−−−。
小諸・御代田など各拠点をあっさり落とした「美樹」軍は軽井沢へと迫る。
各地で蹴散らされた「恩田」軍の残兵はそれでもようやく軽井沢の本隊と合流した。
だが、その総数6千5百−−−。
<恩田氏の策>
「恩田」氏は急遽吾妻より1万6千の援兵を決定した。
軽井沢の「恩田」軍は、援軍と合流の後、
真田町から上田を奇襲する策を立てた。
常勝「美樹」軍はゆっくりと軽井沢へと迫る。
隊を大きく広げ、軽井沢を包囲・殲滅するつもりのようだ。
「恩田」軍は予定通り、北へと撤退を始めた。
と、その時、突如として浅間山が噴火を始めた。
溶岩流はあっという間に東山麓を駆け下りていった。
「恩田」軍の退路は塞がれた。
<浅間東麓の戦い>
退路を塞がれた「恩田」軍6千は、浅間山の東南麓に陣を構えた。
「恩田」軍の所在をつかんだ「美樹」軍は浅間山東南麓に兵を派した。
「恩田」軍は、ちょっとした洞窟、いや窪みに立てこもり、
岩々の間を駆け回り、ゲリラ戦を展開した。
決死の覚悟の「恩田」軍と、岩の影からの奇襲、高みからの攻撃という不利のため、
「美樹」軍はその兵力の大差にもかかわらず、攻めあぐねていた。
「美樹」氏は浅間山麓を広く囲み、
逆に「恩田」軍が降りてくる道を全てふさぐことにした。兵糧責めである。
だが、「恩田」軍は軽井沢を出る時、ありったけの兵糧を持っていっていたのだ。
これは長期戦になりそうだった。
<最後>
「美樹」氏は降伏勧告のための使者を派した。
だが、「恩田」軍の士気はまだ衰えていなく、これを拒否した。
「恩田」軍の士気は盛んだった。
見晴らしのいい山麓では、かなり遠巻きに陣を構えている「美樹」軍にも、
その様子はよく見えた。
何日かがすぎた。
ある日、「恩田」軍の陣地から人の気配が消えた。
「美樹」軍の陣地に動揺が走った。逃げられたのか?
「美樹」軍は偵察兵を送った。
だが、「恩田」軍陣地の周囲には異臭が漂い、息ができなかった。
偵察兵はやむを得ず引き返してきた。
「美樹」氏は急遽江戸より
さる有名な奇人が発明したというまやかしの布を取り寄せた。
この布を体に巻いた偵察兵が再度「恩田」軍陣地へ向かった。
そこは地獄絵図だった。「恩田」軍6千5百人、全滅−−−。
周囲にはガスが立ちこめていた。
浅間山の噴火の余波なのだろうか、
「恩田」軍が立てこもった窪みの底から、ある日突然ガスが吹き出したのだ。
「恩田」軍は逃げるまもなくガスにやられたのだろう。
「美樹」軍は「恩田」軍陣地に向かって黙祷し、兵を引き上げた。
(解説:若酔)
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