W-Potac企画(番外編No.1)
☆恩田の卒論合宿☆

<第1回:西多摩鍾乳洞洞口調査>
・1998.10.16-17/参加者:若酔
 調布でレンタカー調達→檜原郷土館→神戸第一洞→大岳沢→山渓(泊)
 →怒田畑→大岳小滝→三ツ合鍾乳洞・対岸の穴→日向和田・ションベン渕
 →速滝の岩屋(パンク)→へそまん本舗→ロイヤルホスト→イエローハット
<第2回:大岳沢周辺調査>
・1998.10.29/参加者:寝太郎
 立川集合→大岳鍾乳洞→小滝→五日市駅→日の出三沢つるつる温泉
<第3回:日原鍾乳洞測量指導>
・1998.12.5-7/参加者:F氏・和泉・バウ・卵男・屍・H君
 東日原→日原鍾乳洞→鈴木民宿(泊)
<第4回:日原鍾乳洞ノッチ測量>
・1998.12.15-17/参加者:若酔・寝太郎
 日原鍾乳洞→鈴木民宿(泊)→もえぎの湯
<第5回:日原鍾乳洞節理測量>
・1998.12.22-23/参加者:寝太郎・大chan
日原鍾乳洞駐車場で仮眠→日原鍾乳洞→日の出三沢つるつる温泉
<第6回:恩田家緊急合宿>
・1999.1.8-9/参加者:寝太郎
 恩田家(実家)    
【卒論提出:1999.1.14】


【卒論を巡る苦難】
・文学部の地理学専攻という場所に所属していた恩田は、
 1年次から
『卒論は倉沢鍾乳洞で!』と決めており、
 論文収集・編年測定済みの洞窟の巡検(1995年岡山など)を積んでいた。
 しかし、担当教授の専門外故の
放置プレイ
 更には卒論当年に対象としていた
 
倉沢鍾乳洞の閉鎖などがあり、
 卒論対象地が2転3転。
 
倉沢(8月)→大岳+西多摩全域(10月)→日原(12月)へと、
 めまぐるしく変化した。
 そして、
就職活動の難航(内定は10月23日)、
 教員免許取得のための母校
教育実習(11月すべて)を挟んだため、
 全てがギリギリの崖っぷちに立たされる。
もう、一人では論文が書けない」
 と悟った恩田は、
 誰彼構わず
徴発
 (権力により強制的に取り立てたり駆り立てたりすること)し、
 現地に連行して強制労働を強(し)いた。
 このページで紹介する現地調査は、
 そんな恩田の悲鳴的な心象とは対照的に描かれるはず。
 だって、当人以外は卒業の危機なんて無いんだし。(爆)


 てなわけで、遠大な理想を追いつつ自爆した卒論の調査、
 今思えばそれなりに楽しかったのかも。(笑)


<第1回:西多摩鍾乳洞洞口調査>
・この直前、恩田が一人で事前調査。
 西多摩全域に散らばる鍾乳洞の文献を集めてくる。
 その論文に基づいて洞口を探しだし、
 比高計測により西多摩の鍾乳洞の特徴を掴もうとした。

 
が、
 なにしろ論文では具体的な位置が示されていない。
 文章中に登場する道順をたどるのだが、
 普段人が通るような場所はほとんど無く、
 ほぼ
山狩り同然で西多摩の山中を迷走する。
 しかも、天候は

 装備はちゃちな合羽が一枚。
 
 同じく卒論で苦しんでいるはずの若酔を助手席に、
 レンタカーで山野を駆けた。

 途中、
野ウサギを轢きかけたり、
 林道で
パンクして鉱夫に助けて貰ったり(タイヤは弁償)、
 圏外で
携帯を落としたりと、
 出費がかさんだ割に実りの全くない調査だった。
 ただ、西多摩地域の妙なスポットは異常な程網羅した記憶あり。


<第2回:大岳沢周辺調査>
・卒論の担当教授の放置プレイに業を煮やし、
 日々悶々鬱々としているところに朗報。
 どうやら青梅に鍾乳洞に強い教授がいるとのこと。
 早速飛びついてみると、
 院生→常勤講師→文化祭指導員→地質学者のどえらい先生
 のように伝達され、気が付いたら大事(オオゴト)に。
 何にも決まっていないオイラにアドバイスを頂き、
 まずは大岳鍾乳洞で測量を試みることになった。

・立川集合。
 が、
例によって寝太郎が来ない。(T_T)
 まぁ、プレ調査ということで簡単に洞内を調査するも、
 目的の地下河川跡を発見できず、
 例によって例のごとく爆裂大轟沈。
 五日市まで出掛けて成果がないのは悔しいので、
 寝太郎と
温泉に浸かりに出かける。
 (典型的な
逃避行動
 この時点で提出まで3ヶ月を切っており、
 徐々に偏頭痛がはじまる。


<第3回:日原鍾乳洞測量指導>
・教育実習&事後指導な終わり、
 気が付いたら提出まで
40日強。
 「日原で教授達が地区会開くんだけど」
 というお誘いに飛びついく。
 
「もう、提出できれば何だっていいんです。
 そう、どうでもいいんですヨ!!!」
 という教授達の励ましを得て復活。(爆笑)
 既に
死に様まで描いていた所での
 まさに
天の声
 「さいこーですくぁー?」
 「さいくぉ〜でぇす!」
・地学部の同期&後輩(洞窟測量経験者)を
 緊急招集。
 院生や母校から測量器具を調達し、
 教授の皆様(全部で5人)の指導を仰ぎつつ、
 「
このまま一気にズババババンとぅおーー!」
 とは行かず、成果ははかばかしくなく
轟沈
 連行された皆の衆、すまんかったのぅ〜。
・集合前夜、教授達と
高級旅館入り。
 一室で翌日の概要(旧道調査)の説明を受けた後、
 思った通り
宴会に突入。
 なんであんなに飲むんだろうねぇ。
 コップで日本酒一気だなんて、、、。
 下戸にはきつかった記憶が、、、。


・そして測量当日、
 測量道具がほとんど足りていない状況が発覚。
 教授、何を思ったか
工事作業所に侵入
 置いてあった測量棒を
拝借(いいのか?)、
 更には落ちていた棒っきれに数値を記入し、
 簡易測量道具完成!?
 なかなか
味な測量風景でした。
・この頃の恩田は毎日胃痛と吐き気に襲われていました。
 そしてこの直後、こともあろうに
双子座流星群に逃避、
 更に首を絞める結果となった。

<折尺を弄ぶF氏> <カラ元気で落ち着かない恩田>
<日原集落> <プレ測量・水琴窟付近>
<測量道具?> <民宿にて>

<第4回:日原鍾乳洞ノッチ測量>
・調査は一度で済まないもの、
 前回の不備を鑑み、全部の部位を再測量することになる。
 既に期限
一ヶ月を切っており
 頭も体もパニック状態。
・ここにきて、本気で猫の手も借りたい状況に陥り、
 論文で頭を痛めている若水と、
 
留年を決めた寝太郎を口説き落として手伝って貰う。
 (しかも無償で、、、すまんかったっす)
・測量道具はあちこちで借り求め、
 更にはテントのポールを利用して測量棒を作成、
 (軽くて真っ直ぐな上に持ち運びに便利)
 一度経験していることも手伝って、
 飛躍的に精度が向上。
 昼に測量、夜に図化という強行軍だった。
・この測量が卒論の骨格を決めたが、
 断面図の図化に膨大な時間を割くため、
 下請け人を多数頼む(というか徴発)羽目になった。
・この頃の恩田は
精神安定剤無しでは眠れない体に、、、(T_T)
 とりあえず帰途は温泉で一休み。つかの間の休息。

<休憩所で暖を採る> <曲流部位の測量>
<様になってるでしょ?> <苦労の跡が、、、>

<第5回:日原鍾乳洞節理測量>
・卒論の輪郭がおぼろげながら見えてきて、
 内容はともかく一日
2万字という驚異的なペースで
 進んでいたため、精神的に少し余裕が出てくる。
 しかし、卒論は書けば書く程に、
 矛盾やデータ不足が顕著に現れてくる。
 
「これでは書けない」
 そう思った瞬間に電話に手が伸びていた。
 
「奥多摩行かない?」
 「・・・・・・。」
・またも寝太郎を連行(若水はさすがに誘える時期ではない)、
 さらにカナダ留学より戻ってきていたゼミ長の大chanも口説き落とし、
 (大迷惑)
 既に資金的な余裕もないと思っていたら、
 (これまでで十万円単位で卒論に突っ込んでいる)
 大chanは車を出してくれた。
 夜中に出発し、朝まで車で仮眠、
 開洞と共になだれ込んで測量。
 これにより、洞内の岩石の方向を特定でき
(たことにして)
 どうにか卒論を書くデータが出そろった。
 3人とも岩石関係の測量は素人であったが、
 思った以上に早く終了、
 温泉に出掛けてリフレッシュして帰途についた。

 

<船底岩付近> <ホール付近>

<「早く下界に出してくれ」「終わったらね」>

<恩田家合宿>
・あとはデータを元に書くだけ。
 と思っていたところに思わぬ伏兵。
 
「寝太郎がデータをもったまま行方不明」
 下請けを頼んでいた重要な資料を持ったまま、
 寝太郎が逃走した。
 連絡が付いたのが年明け卒論提出一週間前。
 下請けを頼んだ自分が悪いのだが、
 (そもそも卒論はそう言うものではない)
 慌てて呼び出したときには作業が白紙。(T_T)
 恩田家に連行して徹夜で作業をすることに。
 (一応、謝礼として外食はしたのだが)
 恩田は時々
奇声を発する状態になっており、
 掛ける音楽がエンヤやシャズナなど、徐々に壊れてくる。
・寝太郎が帰宅した後、恩田は不眠症に陥り、
 親父が持っていた
ハルシオンで強制14時間睡眠。
 最後の追い込みに駆けた。

<お世話になった方々>
・現地調査に協力してくれた方々
 若水・寝太郎・F氏・大chan・和泉・バウ・屍・卵男・H君
・下請け作業班
 
地理研の方々5名
・指導協力
 
名前は書けませんが教授陣5名・院生1名
・日原鍾乳洞の方々
 入洞料金に多大な便宜を図って頂きました。
・鈴木民宿の方々
 格安料金で泊めて頂きました。
 通常料金6000円を、晩飯ナシ・暖房無しで5000円に。
 それなのに、
 「食べないと元気でないでしょ」と、
 食事を差し入れてくれました。(T_T)ナミダ

・スタートの遅い卒論だっただけに、
 皆様の協力無しでは書き上げることすら出来ませんでした。
 無理を通してしまったところが多々あり、
 多大な負担を強いてすいませんでした。
 ありがとうございます、本当に助かりました。
 
皆様がお困りの時は是非、声を掛けてください。
 微力ながら、精一杯お手伝いをさせて頂きます!

  
【卒論提出:1999.1.14】
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