趣味人(スプーキー)     
閑話3「密やかな余裕」(題材:懐中時計)


















《写真:気分によって着替える懐中時計》

 小心者の私にとって、時計は生活になくてはならないものであると同時に、「心を縛り上げる、ひどく厄介なもの」というイメージがあります。「自分の時間」を大切に思う私にとって、先々のスケジュールや目の前にぶら下がる様々な予定達は、それがいくら楽しいことであっても、切迫感や閉塞感を生む大きな要因となってしまうんですね。
 だから、刻一刻と予定の到来を示す時計は、自分の規律を守る分身であると同時に、ある意味においてはまったくの対極にあります。
 そんな微妙な立場にいる時計ですが、厄介だと思う以上に愛しいと感じることが多いので、こうして登場して貰うことになりました。

 とは言っても、「全ての時計が好き」というわけではなくて、そのなかでもたった一つ、【懐中時計】だけが、どうやら私の性にあっているようなんです。柱時計や置き時計、腕時計に鳩時計(笑)、時計にもいろいろあるけれど、私の時計選びの条件はやや面倒。まずは「自分と一緒に行動できること」、それでいて「精神的に安心できる形」ということ。機能性はこの際二の次です。
 「精神的に安心できる形」というのが、事態をややこしくしている原因なんでしょうが、でも、こればかりは譲れない、一番大事な条件だったりします。というのも、それは時計を時折厄介に感じることがある私が、時計を愛しいと思える大きな理由だから。

 普段の私をよーく見ている方はお気づきでしょうが、私は仕事以外で時計を露出することはほとんどありません。それは冒頭に書いたように、絶えず時間追われる感覚が好きではないからで、自分の体の目に付くところに時計があると、精神的にどうも、切迫感が拭えなくなってしまうんですよね。困ったものです。
 そうなると、腕時計というのはどうも、性に合わない形ということになるんです。腕というのは割合と視野に入りやすく、だからこそ実用的と言えるのですが、私にとってそれは厄介な形状だとしか言えないんですね。
 そんなわけで、昔(中学時代)から腕時計の文字盤はなるべく小さいサイズの物を選んでいました。いわゆる男物のゴツイ時計は好みではなく、当時は「boys」と言われた男物と女物の中間のサイズ(男女兼用のはしりですね)を好んで身につけていました。 割と特殊な運動(洞窟探検)もしていましたけれど、過度の防水や耐衝撃の時計は好みませんでしたし、私立という特殊性からか貴金属に近いような高価な時計が流行っていましたが、そういう「見せるための時計」には当時から全く興味もありませんでした。
 そして、その小さな時計でさえ、正確な時間が知りたい時以外は制服や私服のポケットに入れて、なるべく露出を避けていた覚えがあります。

 しかし、それは時間を意識の外に追いやろうとしていただけではなく、もう一つ「体全体で時間を感じたかったから」という理由があります。今でもそうなんですが、なるべく時計に頼らなくても、身体感覚で時間が解るようになりたいなぁ〜と、そう思うわけです。時間に縛られるのではなくて、逆に時間を弄ぶ余裕と言うんでしょうか、自分の自由になる時間だからこそ、気にせずに過ごしたいという気持ちの表れなんでしょうね。その場合、時計はあくまで「意識時間」の確認というか、自分の身体感覚がどれほど鋭敏なのか、一種の遊び心のひとつとして愛用している玩具のようなものになるわけです。もちろん、そうそう正確な時間が弾き出せるわけではありませけれど、その誤差を楽しむというか、その余裕を楽しめることが嬉しいと思うんですよ。

 考えてみれば、そうやって楽しめる時計は贅沢品だと思うんです。時間ってそもそも、感じ方によって良くも悪くも取れる微妙な感覚ですよね。退屈なことを延々と繰り返すときの時間の長さもあれば、あっという間に過ぎ去っていく楽しい時間だってある。同じ時間を刻むのなら、慌ただしく追われて過ごすよりも、余裕を持って焦らずにいきたいですよね。
 懐中時計には、そんな密やかな楽しみを含める余裕があるような気がします。胸元やポケットに忍ばせることを主とする使い方もそうですし、時計を見るためにいちいち取り出さなければならないという面倒加減も遊び心があっていい。それに、手のひらにすっぽりと収まる丸みの心地よさ。それが私が懐中時計を偏愛する理由なんです。

 そう考えると、時計って結構遊び心の塊なんですよね。月齢時計(ムーンフェイズ)で星空を想ったり、透明細工(スケルトン)に水晶振動子(クォーツ)や機械仕掛(ムーヴメント)の緻密な動きを楽しんだり、たまには電池式ではなくて振り子式の自動巻も適度な重みと振動が手のひらに心地よい。単調な日常に飽きたら、全ての価値観を覆すような逆回転時計(ミラーウォッチ)もいいし、流れ星に思いを馳せる夜空でさえも、ヴーンと重い電子音を響かせる月明灯(ルミライト)は、恋しい人の顔に淡漠(あお)い愁いと美しさを帯びさせる。
 時間の価値と重みは、その期待度や出来事、つまり「感情の重さ」によって決まるのだから、味気ない切迫感や閉塞感、ましてや自尊心としてのステイタスシンボルという気持ちで時計を見るのは、勿体ない事なんだと思いませんか?
 『そろそろ皆既月食が始まるね』とか『放課後は何をしよう』とか、【待ち遠しい時間】を刻める時計は幸せ者です。だから、時計をもっと可愛がってほしいなと思います。職に就いた幾人もの友人を見てきて感じるのですが、時間に追われて心を凍らせた大人になるより、忙しくても自分の時間をしっかり楽しめる大人になってほしいと思います。
 無限とも言える時間の流れの中で、案外自分の自由になる時間は少ないもの。だからこそ、縛られず、適度な遊び心で楽しんでやろうと思うんでしょうね。

 ふと時間の空いた午后のプライベートタイム、懐中時計の小さな丸みを手のひらに、さぁどこに出掛けようと感じることが出来たなら、それはとても楽しい時間になると思いませんか?