ご朱印採集と私
            
by: 私が書くの

テーマを持って行動することは良い事だと考える。これは、普段の何食わぬ行動でさえ、何かの意味が存在していると考えることを楽しむ習慣によるのかもしれないが、最近そういった時間が取れないのが残念である。
さて、朱印とは……と書き出してもつまらないであろうから、それは置いておくとして、これをすることにより、何が面白いかについて述べたいと思う。朱印は寺社において行なうことができるのであるが、本稿は寺についてのみ記すことにする。寺は、我々の住んでいる街中にも存在する。また、街中ではなく農山漁村にも存在している。日本中至る所に存在している寺をまわり、その証として朱印をもらう。これは、記録としてという意味もあるので、それだけでも面白い。全部の寺にあるというわけではないので、その辺も興味深いところである。行ってみたが開いていなかったり、やっていなかったりする場合も多い。それは、観光用として整備されていない寺に多く見られるケースである。これらのことを勘案すると、必然的に観光として、若しくは信仰として朱印が整備されている寺をまわるのがもっとも朱印を集めやすいことになる。ただ、ここで前段落で述べたようにテーマを設定することが重要である。何も考えずにただただ集めることも悪いとは言えないが、私はどうもあまり面白いとは感じない。そこで、テーマを持って集めることにした。昔から行なわれている観音霊場巡りを行なうことにしたのである。ただ、たまたま出向いた旅先で、ふらっと寺に寄ったら朱印をやっていて、印してもらうということも、旅情としては捨て難いので、その様なことも併行して行なっている。
観音霊場巡りは、私は百を想定しているが、ようやく半分くらいである。まだまだ先は長く険しい、訳はないが、一つの息抜きとしては興味深さを隠しきれない。朱印を集めるために出かけること、これは、現代人にとっては、注意しなければ見落としがちな「何か」を、私に与えてくれているような気がしている。


<恩田の繰り言>
・私に「御朱印」の存在を教えてくれたのが、
 他でもない、私が書くの氏である。
・氏は、試験休みのある日、私を秩父へと誘った。
 秩父鉄道の三峰口駅をおり、
 バスにも乗らずに歩き出した氏に疑問を持った。
 「なんで、バスに乗らないの?」
 すると氏は、
 「だって、昨日はここまでしか歩いていないから。」
 と答えた。
 そう、【全行程を自分の足で歩くこと】が、
 お遍路さんには大事なんだ、ということだった。
 確かに現代では、
 タクシーをチャーターして巡るなんて人もいる。
 「その過程が面白いのに」
 そう言った氏の言葉で、
 何か一つ、目から鱗が落ちた思いがした。
・御朱印も、確かに若い人(あくまでも以前に比べてではあるが)
 にも増えてきているらしく、
 氏の危惧するとおり、「ただ集めるだけ」の人が多いのも事実。
 私は、揶揄として「極楽スタンプラリー」という言葉を用いているが、
 もともとは写経をして初めて頂ける印である、
 せめて般若心経ぐらいは、奉じておかないと、
 ということで、私も般若心経の読経だけ、させて頂いている。
・観音霊場も、いまやそこかしこにあり、
 御朱印も、仏閣のみならず、神社、果ては史跡にまで登場する始末。
 どのように集めてゆくのかは、
 やはりその個々人の目的によるのだろう。
・御朱印のページは、常々更新したいと思っており、
 例えば御神体別のデータとして、
 あるいは、歴史的バックグラウンドとして、
 もうちょっとどうにかならないものかと思案中である。
 ただ、デザイン的な面白さは、
 これからも全面に押し出していくつもりなので、
 なるべくたくさんの御朱印を、
 できるだけ平易に、人の目に触れさせたいと思っています。
 そしてそれが、私の御朱印に対する「目的」になるのかな。