秋風に寄せて(夏だけど)
                      
未月 朔椰(ばんどまん)

先輩が書いていた「ちょっといいですか」というエッセイの中で、私の印象にいまだに刻み込まれているものがある。私はこの文章を書くにあたって、そのエッセイを久しぶりに読み返してみた。そして思った。そのエッセイは当時の、私たちの心情のど真ん中を突いていた。それは、あの頃、心の中に矛盾という悪魔を飼い慣らしていた、それでいて甘酸っぱい、青写真のような青春の中で、一陣の優しい風になって胸の中に置いていた鈴を精一杯鳴らしてくれた。少なくとも私にとっては。
先輩のエッセイの連載が終わる頃のアンケートで、私はそのエッセイにつたない文章で感想を寄せた。その後、私は、アンケートの回答者の何人かに渡される予定だった先輩が今まで書いた原稿を受け取った。その時まで先輩とはまだ、ライターと読者の関係だった。思えば不思議な話である。同じ学校にいるのにもかかわらず、出会いのきっかけがこんな形だったとは。(しかも、当時私は中学2年生、先輩は高校2年生であった。)
さて、当時私はどんな人間だったかと言えば、とことん何の取り柄もない奴であった。成績もさほど良い訳ではなく、部活も入ってはいたが、中途半端で打ち込むってわけでもなく、クラスの中でも少人数の友達しかいなくて、いじめっこには標的にされていた。そんな私でも、本を読むことと音楽を聴くことだけは非常に好きだった。そして当然のごとく図書館にも行った。
そこは私にとって、何かとても魅力的な、不思議と安心感のある空間だった。ある意味、図書館がなかったら私はだめになっていたかもしれない。さらに、そこに何気なく置いてあった図書館通信という小冊子もまた魅力的であった。その中にある、読者参加ゲーム、エッセイ。中学生の私がはまっていったのは言うまでもない。今思うと、私は、単純な学校生活には明らかに欠けていた、何か創造的なものに惹かれていたのかもしれない。私にとって先輩の書いていたエッセイは、その中でも光っていた。先輩は、エッセイの中で自分の面白い部分も、弱い部分も全部さらけだしていた。それは私にとってある意味衝撃的であった。「そうか、そういう表現方法もあるんだ。」 そのうち本好きだったのも相成って私は小説を書きたいと思うようになった。そして、中学3年になり、私と先輩はライター同士になった。(もっともレベルの差は歴然だったが。)
当時の私が今の自分を見たらきっとびっくりするであろう。なぜなら、いま私はミュージシャンを目指しているのだから。どうしてこうなったのかは次の機会(いつだ?)に回すとして、私が言いたいのは今の自分がいるんだということ。(何がいいたいんだ? 私は)中学・高校時代ははっきりいってとても辛かった。それでも、こうやって過去のことを文章にして書けるのはどうしてか。それは、今の自分を肯定しているから。現在を肯定することで過去も肯定できるって思いませんか? ミュージシャンになるのは容易なことでない。たまに、自分はなんでこんな道を選んだのか疑問に思う。でも、今、ギターを弾くことは確かに楽しいのだ。たとえ、貧乏になったって、結婚できなくったって、楽しいのだ。これは、あのエッセイに書かれていたことと大きくつながっている。
あの時、私は先輩のエッセイに対するアンケートに、先輩は弱い人間じゃないと書いた。それは、あの時の自分が言える立場でもなかったのだ。けれど、今の自分なら言えるかもしれない。言ったとしても、それが今の先輩に当てはまらないかもしれないし、でたらめかもしれない。けれど、こういうのもありだろう。ただ、意味通りの言葉ではなく、思い出と結びついた言葉として。そうすることで人に感謝できるなら、私は喜んでその言葉を吐こう。


−先輩は弱い人間なんかじゃない−


<恩田の繰り言>
・「自分の在り様(ありよう)を表現することは、
 決して容易なことじゃない」
・文章を書くようになってからというもの、
 常に付いて回る一つの矛盾がある。
 それは、
 【実生活における自然に振る舞う自分】と、
 【表現することによって生まれてしまった自分】
 とのギャップ。
・「表現者はいつでも、偶像の対象でしかない。」
 平素より親交のある人々は別として、
 流れゆく表現だけを追って行く人々にとって、
 表現者は都合の良いイメージに変わってゆく。
 自分の代弁者として在る表現者に、
 自分をダブらせてゆく人々。
 そうして、
 実像とかけ離れた表現者が巷にあふれかえり、
 かりそめの時流に迎合した、
 軽薄な癖に面の皮の厚い彼らが世を席巻する。
 彼らは理解していない、
 常に代弁者であり続けようとするのなら、
 何処かで作られた自分を演じようとするのなら、
 それはいつしか、
 表現者ではない鉛筆乞食でしかなくなってくることを。
・代弁となるべき表現は、純粋な主観でなくてはならない。
 自分の内なる想いを無くして、
 語られた(いや、放言されたとすべきか)言葉達に、
 代弁に足るべき力が果たしてあるのだろうか?
 表現には美学が、実学が、
 そして、培った経験と思想のバックグラウンドが不可欠だ。

・ばんどまん氏は、
 そういう意味で、まごうことなき表現者である。
 私のように、
 仕事に就いて、片手間で雑文を書き散らす輩と違い、
 生活を賭して、表現者になるべく奮戦している。
 自分の信念を信じ切ること、
 簡単なようで、なかなか行動するに容易なことではない。
 表現者、いや、雑文家の末席に座す者として、
 ばんどまん氏の文章を受け止め、
 そして、
 大きな声をもって、ばんどまん氏の前途を祝そう。

 −偶像になるな、表現者になれ−