ちょっといいですか?
学図研東京支部NEWS編 
第6回:「優しさは相手を認めることから」

「男のくせに……。」
 私にとって一番耳障りで、一番、心の奥に突き刺さる言葉。
生来の運動音痴、とまではいかないものの、
運動そのものがあまり好きでなかった私は、
進んで参加することをせず、
結果としてスポーツ全般に対して苦手意識をもってしまっている。
それを理由にか、
小学校時代から「貧弱坊や」のレッテルを張られていた私は、
今までに嫌というほど、いや、そんな程度では済まないほど、
この言葉の矢を身に受け続けてきた。
今でこそ、軽く受け流すことができるようになってはいるが、
中学校・高校時代は周囲とのギャップにずいぶん悩んだものである。

昔から、活動的で色々なことに興味を持っていた私だったが、
その好奇心の方向が、
どうしても一般の尺度からズレてしまう傾向があった。
発想が奇抜すぎて理解に苦しむとも、よく言われた。
そしてそれは修正(矯正?)が効かないまま今に至っている。

そんなズレの1つとして、極端なまでのスポーツ嫌いがある。
野球、サッカーなどの球技は言うに及ばず、
大学柄熱狂的だったラグビーやオリンピックに至るまで、
本当に全く興味が湧いてこないのだ。
友達に誘われて試合を見に出掛けても、テレビで中継を見ていても、
つまらないという感情を通り越して、もはや苦痛でしかない。
もちろん、はなっから興味がないため、
自分から試合を見ようと思ったことはただの一度もないし、
ましてや野球やサッカーを実際にやろうなどとは夢にも思わない。
体育の授業以外でボールに触ったことなど、全部思い出せるぐらいの勢いだ。
もはや私にとってボールというモノは恐怖の対象といっても差し支えないだろう。

そんな私を評して、友人は冒頭のような言葉を放つのである。
男だからって、なんでスポーツを好きでなきゃいけないんだろう。
正直言って、
そんな時間があるのなら、
本を読んだり、趣味に没頭している方が私にとってはよっぽど楽しい。
今でもそうだが、
スポーツ新聞を片手に、友人はよくスポーツの話題に興じている。
自分の贔屓にしているチームのことや、その勝敗など、
熱を込めて話す姿を見ていると、本当に楽しそうで羨ましいとも思う。
しかし私は、そのような話題の時には黙ってニコニコしているか、
適当に頷いているか、そそくさと立ち去るぐらいしかリアクションがとれない。
それが時に、吊し上げを食うもととなることもある。
『スポーツが嫌いってのは何たることだ!』と言わんばかりに、
「不健康だ!」とか「男のくせに、、、」という言葉を連発する。
その挙げ句、
「だって、つまんないんだもん。」という私の理由を不服としつつも、
まるで信じられないといった顔つきで放免するのである。
こちらにしてみれば、「つまらない」ものに取り立てて理由があるわけではなく、どういう風に「つまらない」のかを説明するには骨が折れる。
そもそも、自分の感情を不当とされること自体、釈然としない。
つまらないものはつまらないのだ。

私のように、一般の範疇より外れてしまった人間は不遇である。
外れていることが欠陥であるが如く、様々な圧力をかけられるのだから。
それも、相手はそれが至極当然であるかのように言ってのける。
何気ないその一言を、
相手が永年のコンプレックスとして思い悩んでいることさえ気付かないで。

人間誰でも、得手不得手というものがある。
『男(女)だから……これができなきゃいけない。』っていう考え方は、
そもそもおかしな事ではないだろうか。
なんだって、出来るに越したことはない。
でも、それができるということはあくまでも理想だろう。
そんな理想を他人に押しつけてしまうのは、いかがなものだろう。
いいじゃない、いろんな人間が居ても。
どうしてみんな、『自分と同じ』じゃなきゃいけないの?

まぁ今となっては、
そんなことを思い悩む暇があったら自分の好きなことの1つでも
やることにしている。
それでも相手の無神経な一言に、一瞬カチンとくることもよくある。
当人には冗談のつもりでも、
相手にとっては心を抉られるような台詞だってあるのだ。
それでも、相手が笑っているうちはまだ良い。
顔から笑いが消えても、このナンセンスな冗談は続く。
最近は何故かこのような毒のある冗談が人気のようだが、
相手を傷つけてまで取る笑いのセンスに、
私は正直、ついていけない。

その冗談が解らないのは古い、
あるいは、度量がないなどと笑われることも多い。
でもそれは、冗談を言う側の人間が言うべき事ではなくて、
結局は言われた本人がどう感じるか、だろう。
それを、相手の状況を知りもしないで、
自分勝手な【常識】を押しつける人が増えたような気がする。

自分が、対象となる人間をどう捉えていようと勝手だ。
それは、対象となる人間の意志とは無関係に、
見る側の目に映っている姿が真実なのだから。
だけど、
相手は自分と同じ(価値観を持っている)と思ってしまう甘さが、
誰でも心の中にあることを忘れないで欲しい。
その甘えが知らないうちに、人を傷つけることになるから。

それに、人に冷たく当たることが、
格好良いことだとも思わない。
ファッションとして気取るのは、なおさら滑稽だ。
人の欠点に対してズケズケ言うことは、
一見、本音のやりとりのように見える。
でもその実、
冗談の名を借りた心のさぐり合いでしかないことも多い。
相手のことをろくに考えもせずに無責任な暴言を飛ばし、
相手が落ち込んでから、
『冗談を真に受ける方がおかしいんだ。』などと、
さも当然のように言う。
誠に良く出来た逃げ口上である。
決して本心を出さない、あくまでも冗談の域を出さないやりとり?
詭弁な!

それと、ずっと前から書いているように、
私は「論理学」というものが嫌いである。
なんだか【相手をうち負かす術】みたいで嫌だ。
相手の裏の裏まで読んで話をする、
あの駆け引きじみた感じが嫌だ。
この手の冗談には、同じ匂いを感じ得ない。
何でもっと、素直に話ができないのだろう?

私も含めてだが、今の人々は、
コミュニケーションが非常に下手だ。
どこまでが本音で、どこからが冗談かわからない。
相手の心の見えない、雲をつかむような感覚が嫌だ。
互いに決して届かない懐のさぐり合いは、
見ていて心が淋しくなる。

相手を否定しなくても、話は出来るじゃないか。
相手の感性を認めることも、
自分の感性を認めて貰うことも、
きっと同じぐらい、重要なことだと思う。

相手を認めること。
自分を認めること。
それは本音のコミュニケーション抜きでは、
絶対に成立しないのだから。
それに、かつての私もそうだったけれど、
本音のかわしあいは見ていて本当に見苦しい。
話し方がいくら不器用でも、
相手に誤解されるのを恐れていたら、何も出来ないよ。
毒も虚飾も捨てて、素朴に話をしようよ。
その方が相手も落ち着いていられる。
ちゃちなプライド(自尊心)を考えて牽制し合うのは、
馬鹿げたことだと思うんだけどな。

そんな息の詰まったコミュニケーションは、
自分のためにも決して良くない。
コミュニケーションの下手な私が言うのも何だけど、
自分が変わらなきゃ、相手も変わらない。
その心がけをするだけでも、
心のモヤモヤはだいぶ晴れてくる。

それはきっと、
自分の悩みを聞いて貰うことと同じくらい、
自分にも、
相手にも、
優しくなれるコツだと思うな。

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<note>
初出:1997/01/21
   学校図書館問題研究会・東京支部ニュース1997年1月号
   「ちょっといいですか?(第12回@)/同題」
修正:2003/05/25
   HP遊覧航路
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・迷いました。果たして出して良い文章か。
 結局はマイノリティとしての自分を受け止めて欲しいが為の、
 自己弁護に終始している気がします。
・社会に出たら、こんな体験は激減しました。
 もちろん周りの方々が「大人」だということもありますけれど、
 それ以上にみんな周りに【無関心】なんですよね。
 それが良いことなのかどうかは別として、
 自分としてはかなり好き勝手に出来るようになりました。
・その反面、自分の成長していないこといないこと。(T_T)
 私は相変わらず自分の言いたいことの半分も言えず、
 「本音?なんだいそれ?」の毎日。猛省です。