ちょっといいですか? 学図研東京支部NEWS編 第5回:「文は心より出でて心に向くもの」 自分で書いていて気恥ずかしいほど、 私の文章は自分の感情に素直である。 書くときの自分の状態によって文章が大きく変わるため、 文体から何から(ひどいときには主題まで) 統一がとれていないことも多い。 そのため、 過去の文章を改めて読み返すと、 思わず赤面するような文章に出くわすこともよくある。 高校時代に書いていた雑文には特に、 この傾向が強い。 現在でも直らない悪癖の一つである【自虐文】が、 文章の基本だったのである。 確かに、手っ取り早く笑いをとれるものなのだが、 なんだか身を削って書いているようで、 読み返すと背中が痒くなってくる。 私には『自己顕示欲が強い』という悪癖があるため、 高校時代の対人関係ではかなりの苦戦を強いられた。 物事について辛口の意見でもハッキリ言うため、 それだけ風当たりも強かったのである。 しかし、当時の私は、 『たとえ多くの人から嫌われても、 自分を本当に理解してくれる人が一人でもいればそれで良い。』 『誰からも嫌われない人間は、 決して誰からも心から信じて貰えない。』 という二つの言葉を信条とし、 【個性の尊重】というよりは【協調性の欠落】した、 無謀な生活を送っていたように思う。 今考えてみると、 決して自分に自信があったというものではなく、 心の奥底では皆に理解されたがっていた。 悲劇に酔い切る程自分を逃避させ続けることもできず、 強がって人間関係に波風を立てることによって、 自分の存在を誇示していようとしていたようにさえ思える。 何とも滑稽な話だが、 不器用な人間というものは、 ここ一番の重大事にこそ、大きなポカをするものなのだ。 そんな中にあって、 図書委員としての活動が始まった。 図書館通信に文章を依頼されたとき、 何を書くのか散々迷った末にたどり着いたのが、 「ちょっといいですか?」という題名の身辺雑記だった。 自分の生活を文章にしているうちに、 自分の欠点が段々見えてきた。 自分を精一杯皮肉った文章を書いてみたり、 わざと戯けた文章を書いてみたりと、 自分の在り方に感じ始めていた疑問を、 ありのままに文章に綴っていった。 そうして“自分”という存在を考え始めたとき、 ふと、孤独感が襲った。 私の身の回りには、心の安まるときがなかったのである。 あるのは対人関係の張りつめた空気だけ。 その時の絶望は、 大袈裟ではなく、暗く、とてつもなく、深かった。 どんなに自問自答しても答えは出ない。 そして、 どんなにいい訳を言い連ねたとしても、 自分の本心だけは欺けないことを知った。 残されたのは、強い後悔と自己嫌悪。 そして、言いようのない孤独感。 それが、言ってみれば私の高校時代の背景であった。 そうして、 自己容認と自己否定の間で揺れながら、 文体も様々に変化した。 文章を書くことで自分を表現しようとした結果、 逆に、 自分が隠しようもなくそこにいることを 認識させられた気がした。 そうした意味で、 私は文章を書くという生活の中で、 日々自分を手探りで探してきたのだと思う。 私にとって文章は日記であり、 原稿に向かった日々が一番、 自分と向き合った貴重な時間だったように思う。 『自己容認と自己否定が相容れないものだとは思わない。 混在し、揺れ動く心そのものが、 きっと自己認識なんだろうな。』 そんなことを大学時代に入って考えるようになり、 また、文体も変化してきた。 でも、 そうやってコロコロ変わってきた文体こそが私の成長の証であり、 “ココロの弱い人間”としての、 私の心を表現する手段となり得たのである。
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