ちょっといいですか?
学図研ニュース編  
第3回「本棚の心得」


「本棚を見ると、その人の性格がわかる。」
時折、こんな言葉を耳にすることがある。
この間、友人が遊びに来たときも、
さっそく私の本棚をチェックしていたところを見ると、
この言葉がいかに浸透しているかを伺い知ることができる。
確かに、読書傾向っていうのは人それぞれだし、
考え方や生き様のある程度は、本に影響されることもあるかとは思う。
しかし、本棚を見ただけで勝手に性格を判断されては良い迷惑である。


第一、本の読み方にもそれぞれのスタイルがあるわけで、
同じ本(例えは喜劇にしようか)を読むのでも、
楽しいときに笑い飛ばす人もいれば、
悲しいときや辛いときに読む人だっている。
それを
『喜劇があるから、きっと明るい性格なんだな。』
などと勝手に解釈されたなら、間違われた方は悲劇である。


だから私は、あまり自分の本棚を見せるのは好きではない。
しかし、友人が来るとなれば仕方がないので、
それなりに見栄えの良いようには整理することにしている。
やっぱり、人に見られて“なんとなく恥ずかしい本”や、
逆に“一応、ちゃんと勉強してるんだぞと言えそうな本”があるわけで、
全く無防備な状態で本棚を晒すようなことはしたくない。


確かに、本棚に難しそうな本が並んでいれば、
その人間が賢そうに見えてしまうから不思議である。
しかし実際は、
本棚に挿してある本よりも、
机やちゃぶ台・トイレの入り口なんかに置いてある本というのが、
生活に密着している本であり、
その人らしさが出る本ではないのか?
そう、私は思うのだが。


というのも、
私見で言うと本は楽しむために読むものだと思っているので、
啓蒙だとか自己啓発なんていう理由で本を読むことに疑問を持っている1人である。
学生・社会人どちらでも、
何かしらの必要に迫られて学術書や専門書を読むというのなら話は解る。
しかし、「自分を高めよう」とか、「とりあえず覚えてやろう」とか、
そういう目的で読むというのは姿勢としてどうなんだろう?
何か、大事なことを見落としている気がするよね。
どうしてその本を読みたいのか、
純粋な探求心・好奇心、そういうものを読書に求める人が、
減ってきてしまった気がする。
単なる知識の集積という形で読書を終わらせて欲しくはない。


昔からの考え方の一つに、
『読書は勉学の第一歩』『知識の収入源は本』というのがある。
あながち間違いとは言えないけれど、
その考え方が根強いために、
読書というものが誤解されがちなことも事実である。
読書=知識の集積として、必要以上にレヴェルを高く評価されがちなのだ。
【読んでいる本によって、その人間のレヴェルを判断する】というのが、
その悪例と言える。


昔、大学入試の面接で、
『最近に読んだ本で、一番感動した本は何ですか?』
なんていう、馬鹿げた質問があった。
そこで私は「ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』です。」
と答えたのだが、
『そういう本じゃなくてさ、例えば夏目の【こころ】とかさ、、、』
という的はずれな答えが返ってきた。
悪いけど、【蠅の王】だって相当に奥深い本なのに。
(少なくとも、理由も聞かずに一蹴する様な本ではない)
「有名でない本は名作ではない」
というような傲慢さが質問の意図として汲み取られ、
憤慨を通り越して呆れ果てた覚えがある。
文学作品じゃないと認めない?
馬鹿じゃなかろうか?


そもそも、読んだ本で人間性を判断するなど愚の骨頂である。
いくら難解な文学や哲学を読み解けたとして、
それを自慢して歩くような人間にろくな奴は居ないだろうに。
前述の喜劇の例にもあるように、
同じ本を読んだからと言って、感じ方だって人様々だ。


難しい本を読んでいるから読解力がある?
そんなことが一概に言えるのか?
私が思うに、
そもそも読解力というのは相手の立場に立って考えることことであり、
決して、論理的であると言うことではない。
微妙な言葉のニュアンスを捉えることと、
難しい文章を筋道だって考えられるということは、
そもそも別問題ではないだろうか?
つまり、文学に学力や知識を求めるのは、
そもそも見当違いだと言えよう。
学力や知識を求めるのなら、求める分野の専門書を挙げ連ねた方が、
数段、説得力があるように思える。
まぁ、「読んだ」ことと「理解した」ことは別問題という話もあるが。
(それは簡単なテストでもすれば解る話だろう)


それに、文学作品というのも困りものである。
そういう類の本(いわゆる「文壇」という思想が存在した時代の本)は、
わざと表現を複雑にしたり、描写に凝っていたりする。
つまり、難しいのである。
言葉の遊び心や付加価値的な教養などが織り込まれ、
それを楽しむのは大いに楽しい。
描写が細かいのも、味が出て良いと思う。
でも、技法に傾倒したからと言って、
読み解くのが難しいからと言って、
それを「レベルが高い文章」と評価して良いものだろうか。


私は、一概にそう考えて欲しくない。
表現が素朴であったり、素直であったりするものが、
結果的に一段低く見られてしまうからである。
今更言うまでもないことだが、
私は文章はいかに多くの人に感じ入って貰えたか?
ということが重要な評価になると信じている。
難しくても読者をグイグイ惹き付ける文章は良い文章だし、
読者に寄り添った素朴さで、心を捉える名文だってある。
そう言った意味で、
順当な評価をされていない名文も数多い。
文壇だかその道の権威だか有識者だか知らないけれど、
偉そうに小難しく解説する本の中に、
素朴な文章が見あたらないのは何故なんだろうか。


しかし、最近はそんな権威付けの風潮もだいぶ薄れてきて、
読書の持つ意味が幅広くなってきている感じはする。
「本は楽しむためのもの」「身近な一冊」という考えが定着して、
エッセイやコラムなどの「自分の感性」をウリにする本が
多数出版されるようになってきた。
それはやはり、取っつきにくいという読書の概念を崩す意味で、
とても重要なことだとも思う。
今までの学校図書館には、こういった本は少なかったし、
国語の教科書や課題図書の中にだって、
こういう種類の文章は絶対と言っていい程出てこない。
それが未だに、不思議でならない。
「文章の質だよ。」という人もいる。
なにをもって【質】とするのか?
という問題を、少し取り違えているのではないか?と思う。


言葉は生き物である。
国語の教科書の中に出てくる文章の言葉は、
大概において死んでいる。
良い意味では上品で当たり障りがないとも言えるけれど、
「伝わっているのか?」
という根本的な疑問は拭えない。
ましてや長文文学なんて、
教科書に載っているのはほんの一部。
全部の文章を読まずして、
読解をさせるなんて教育者の傲慢なんじゃない?
実際に本を買って全文を読もうと思った文章、
教科書の中にありましたか?


もっと、エッセイなどの文章を見直して欲しい。
いつまでも古い考え方に固執しないで、
生きた勉強を育てて欲しい。
私達の年代が【本】を読まないのも、
そのような教科書的な文章を読み慣れた中で、
『本って、退屈だ。』
という概念が出来上がっているからだと思う。
決して、テレビ文化が栄えているからでも、
ゲーム文化が栄えているからでもない。
現に、今の中学生達は本をよく読む。
それは、新しく開かれた分野の中で、
自由に選べる本の中で、
【本】に対する『暗い』イメージが薄らいでいるからだろう。
たとえ文章的な構造が単純でも、
難しい本とはまた違った感性が育つことを忘れないで欲しい。


しかし困ったことに、
最近のエッセイなどを読んでいると、
「ただ、ズルズルと書けばいい。」
というような文章も少なくない状態になってきた。
出版洪水とまで言われる程、たくさんの本が出版される中で、
自分の言いたいことをしっかりとまとめ上げた
【文章】
という物が見あたらなくなってきているのも事実。
「簡単で解りやすく」
を追求しすぎて、内容が薄っぺらになっている駄文も実に多い。
そして、
今までとは逆に
『内容が薄すぎて、本がつまらない。』
と言う人達も増えてきた。


そして、
【難しい本が嫌いな人】も【内容のない本が嫌いな人】も、
結果的に自分に合った本を求めて、流浪の民なる。
そしてその流浪すら徒労に終わるようになると、
本を探すこと自体をやめてしまう。


『出版は文化だ。』
と声高に叫びながら、
結果的に【文章】を殺してきた人々、
どうしてもっと、
自分に素直になれないのだろうか。


読みたい本を読もう。
伝える文章を紡ごう。
そこになんで、
余計な自尊心や意義を挟み込もうとするのだろう。


表現力(伝えるチカラ)や読解力(伝わるチカラ)は、
自分や相手に素直であることから始まる。
人間性は、理論でどうこう言ったところで、
そうそう変わる代物ではないだろう。


変わりゆく社会で、
今必要とされているものは論理性ではなく、
人間性であり、感性である。
同じ文章でも解釈の仕方は人それぞれ、
それを作者の意図とする一つの答えに導こうとするのではなく、
書き手はイメージを
読み手に任せるだけの度量が必要なのではないだろうか。


だから私の文章は、
理詰めではなく、感性伝播型でありたい。
細かいことは気にしない、
おおらかなイメージの中で、
肩肘の張らない文章でありたい。
そしていずれは、
本棚で埃を被るのではなく、
気軽にトイレにも御一緒できるような、
そんな文章を書けるようになりたいと思うのである。

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<note>
初出:1996/04/18
   学校図書館問題研究会・東京支部ニュース1996年4月号
   「ちょっといいですか?(第6回)/読解力と表現力」
加筆・改題:2001/10/18
   HP遊覧航路
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・学校図書館司書団体の機関誌ということで、
 「図書館と文章」「教育と文章」をテーマに書いた文章です。
 まさか本屋に就職するなどとは露程も思って居らず、
 更にこの歳で司書過程のために大学に通うなど、
 この頃では全然選択肢にありませんでした。
・だから、原本を見て文章の甘さに腹立たしくなり(爆)、
 「加筆」とは書いていますが、原型はほとんど留めていません。
 ただ、文章の源流としての言いたいことは変わっていなかったので、
 今でこそ自分の中で消化して言えるようになったことを、
 出来る限り付け加えてみました。
 文章の長さは当初の5割り増しです。(爆)
・社会の理想と現実のギャップ、
 その一つが、教科書や本の世界だと思うんですよね。
 「良い本程売れない」と感じるようになって、
 商業ベースの文章の限界を見ているようで胸が痛い毎日です。
 話題本の二番煎じ・三番煎じでお茶を濁さないで、
 凛とした芯のある本を作ってもらいたいと思います。
 それにはまず、
 流行本に惑わされすぎる読み手の意識から、
 変えて行かなきゃいけないんでしょうね。
 結局は【本】を殺してきたのは、
 読者に他ならないんですから。
 【本】を育てるのも、やっぱり読者以外にあり得ないんですよね。
・結果的に理詰めに近い文章になってしまいましたが、
 学図研でのシリーズは、
 そういう自己矛盾を孕んでいるからこそ面白いんだと思って下さい。
 だんだか言い訳じみていますが、
 やっぱり本が好きで、
 それ以上に書くことが好きで、
 そのような矛盾を書くことが、
 恩田としての生き方のような気がします。