ちょっといいですか?
学図研ニュース編 第1回「自分を諫めること・自分を信じること」

 気心の知れた友達に、よく、「お前さぁ、とりあえず糞して寝ろよ。」などと言われる。
つまらない事であまりにもあれこれとよく悩むから、そう言われるのである。
 私の性格を子供に例えるとと、『プールが嫌で嫌でしょうがないけど、その日の給食に大好きな【茄子のミートスパゲティ】が出るとする。前日、心の中で散々悩んだ挙げ句に本当に病気になって、翌日学校を休んで死ぬほど後悔するような子供。』っていう感じかな? 優柔不断とはちょっと違うが(もともと、学校に行くという答は決まっているから)、詰まるところは気が小さすぎるのである。
 仲の良かった友達と喧嘩しちゃったからオロオロ・提出物を出し忘れちゃったからオタオタ。つきあわされる方がいい加減にしろと怒りたくなるのももっともである。んがしかし、気になってしまうものはしょうがない。自分に嘘はつけないんだから。
 そんな性格なので、2つ3つの些細な悩みが気になり、一人でがんじがらめになってしょっちゅう自爆している。精神分析学で言うと【分裂気質の内圧自爆型】と言うんだそうだが、この悪癖がなかなか直らないおかげで、人間関係がこじれてしょうがない。
 おんなじ様な性格の人もいるかも知れないので、(いや、いると信じて)今回は少々湿っぽい話になるが、最後までおつきあい願いたい。


 私の悩みで一番多いのが、時間に関係する漠然としたものである。日常的に時間に追われている感覚と言うのか、いつも気が焦っている。実際に多忙なこともあるが、よくよく考えてみると、じっくり時間をかけて処理できることが多い。どうも切迫感が先行して、「あれもやんなきゃ」「これもやんなきゃ」的に、自分を追い込んでいる例が多分にあるのである。
 なぜ、そんなにまでして時間にこだわるのか? と、考えてみると思い当たることがあった。中学受験の時、私は自分の希望に関係なく、いやと言うほど勉強させられた。毎日、塾に通うために遊ぶ時間を削られて、自分のやりたいことはほとんどと言っていいほどできなかったのである。その反動が中学・高校時代に現れて、自分の時間が持てることが贅沢に思えて、時間を無駄にすることはもったいなく感じられた。時間的貧乏性と言うのか、『今やらなかったら、ひょっとして一生できないんじゃないか?』というような“期限つきの時間”についてすごく意識が強かったのだろう。がむしゃらに物事に取り組んで、より多くのことを学ぼうとした覚えがある。そしてそれは、数年経った今も変わっていない気がするのである。
 また、何事にも必死だった中高生時代の私は、よく人と意見が衝突した。そして、私は話し言葉で自分の感情を表現することが人並以上に苦手であり、そういう所で全体的にまだ不器用だった私は、自分への苛立ちと感傷が混ぜこぜになった感情にしばしば襲われた。それを癒すために、よく自分の好きな場所を探して点々と歩いた。それは時にどこかの公園であったり、渋谷の雑踏の中だったりした。不幸に酔っていると言えばそれまでだが、この時期特有のセンチメンタリズムというのか、大人からみれば笑ってしまうようなことでも当時の私には大問題だったのである。
 そんな私が好きだったのが、学校の屋上だった。クラブが終わってからとか、中野や新宿の高層ビル群の上に昇る月や星が、私の感傷を揺さぶった。ただぼんやりと眺めているだけの星空や夕焼けの雲なのに、なんて表現すればいいんだろう、肩をたたくように私の近くにあるような、そんな錯覚を覚えたように思う。星の名前がよく分からなくても、高層ビルの灯しか見えなくても、その感傷的な雰囲気は私の不安や焦燥をやわらげるには十分だったのである。
 しかしその反面、いくら感傷に浸っていても想いは言葉にしなければ相手に伝えることができないことを私は痛いほど感じていた。あれこれ思い悩みながらも、自分なりの解答が見つけられる所まで成長していなかった私は、結果的に感情を心に閉じこめるしかなかった。クールを演じ、多忙を演じ、社会を色あせた物としてみようとした時期もあったが、結局の所は感傷に拠り所を求めていたように思う。日常生活の雑踏から離れたくて、そして、感傷を求めたくて様々な場所に旅行に出掛けた。一人で出掛けることもあったし、大切な友達とキャンプに出掛けることもよくあった。単なる逃避だということは解っていたけれど、私はそれでも良かったと思う。
 そんなキャンプに出ているうちに、少しずつみんなのことも分かってきた。焚火を囲んで座り、炭をつつきながら話した事の中にみんなの悩みが見えかくれしていて、「ああ、みんなおんなじなんだな。」という安堵感が生まれたのである。そして、たったそれだけのことで、どれだけ私が救われたことか。
 学校や、ただの日常生活では、こういう機会は滅多にないものではなかろうか?
 日常生活とは明らかに違う、すべてが本音で、何も臆すことも隠すこともなく、素直に話が出きる瞬間。将来の夢や希望、普段では気恥ずかしくて絶対に口に出せないようなことを、みんなが熱っぽく語れる雰囲気。そして、話の終わりはいつも、誰もが無口になってただ焚き火の崩れる様を黙々と眺めるだけになる。それでも、その場には不思議な連帯感があって、感情を表さなくても、その一瞬一瞬の時間を共有していること自体が大きな意味を持つようになってくる。
 それが不思議で、コミュニケーションが下手だった私にとって、その時間は何事にも代えることができないほど、とてもとても大切で、大好きな時間だった。そして、少なくとも私には、昔も今も変わりなく、それが皆とキャンプに出掛ける理由の大きなウェートを占めているように思う。
 そのようないきさつからか、私はどちらかというと理性よりも感性を重んじるようになった。自分自信が不器用だから、感情がすぐに顔に現れる人とか性格的に憎めないような人を見ると本当に羨ましいし、できれば私もそういう人間になりたいと思っている。でも、性格は容易に変えられないし、私は不器用な自分が好きでもある。なんだか矛盾してるようだけど、それはそれでもいいじゃないか。
 そして私には文章がある。話し言葉で言い表せなくても、文章になると私は途端に饒舌になる。拙い言葉だということは承知している、だからこそ、できるだけ自分に素直に、できるだけ偽り無く、飾らない言葉を紡いでいきたい。そしてそれは、少しでも私の素直な心に触れて欲しいから。虚飾と虚勢で生きてきた、“僕の良心”を聞いて欲しいから。
 
 例え私の悩みが尽きなくても、私の文章を読んでくれる人がいる事でだいぶ身が軽くなる。悩みを人に聞いてもらうとすっきりするのと同様に、である。
 だから私は自滅しそうになったとき、気分転換に旅行に出かけるか・文章を書くかして自分を見つめ直すことにしている。たとえその悩みが解決しなくても、必ず何か1つは答らしき物が見えてくるから。


 そして相変わらず、糞して寝ようにも寝つけないほど悩みは多いけれど、のんびり悩みごとと向き合いながら、春爛漫の夜空を眺めている今日この頃である。

           ∂∂ゝ{そしてまた僕は旅に出る/恩田雅彦}

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・初出:1995/11/14発行 学校図書館問題研究会・東京支部ニュース
    「悩み多き人生」より。改稿・改題。
・「ちょっといいですか?」のシリーズは、
 書いていた場所によって高校編・大学編の2つに分けられますが、
 どちらも私が文章を書いてきた中で、
 とても重要な意味合いを持っている愛着のある文章たちです。
 なかでも大学編は、
 文章の専門家である司書さんの団体の御厚意で連載を頂いたもので、
 初めて、「人に頼まれて文章を書く。」という貴重な体験をさせて頂きました。
・4年半も前の未熟な文章を人目に出すのはとても恥ずかしいことですし、
 大学編のほとんどは、こうした自分の内面を赤裸々に綴っている文章ばかりですが、
 自分の文章の方向性を決める上で一番大切な文章だということで、
 長い間の封印を破って、こうした形で世に問うことになりました。
・復活第1番目のこの文章は、
 とにかく自分に素直に素直に書いていってできあがった文章。
 何度も何度も書き直して、今回もまた、少し手直しをしてしまいました。
 「自分」というものを見つめながら書いた最初の文章で、
 苦労しただけに、自分の出発点というか、そういう意味のある文章です。
・掲載時の反響がとにかく多かったもので、
 そういう意味でも「ああ、みんな一緒なんだな」って、
 そう思ったのを覚えています。(笑)
 考え方は人それぞれでしょうけれど、
 一緒だから単純に安心っていうのではなくて、
 一緒に悩める人がいるっていう意味で、すごく心強かった。
・相変わらず、性格はウダウダ悩むままではありますけれども、
 雰囲気だけでも伝わったのであれば、それだけで私は満足です。


                        2000/04/19 恩田雅彦