ちょっといいですか?
web編:第2回「贈り物」

 昔からそうなのだけど、
 気に入ったモノができると、
 何でもかんでも人にプレゼントしてしまう癖がある。
 
 図鑑やCDにはじまって、
 鉱石やらガラスペンやら懐中時計・絵葉書・オルゴール・ガラスのコップ、
 果てはサボテンや植物の種に至るまで、
 幾つも買ってはホイホイと人にあげてしまう。
 
 『なんで俺(もしくは私)にこんなものを、
  べつに特別な祝い事があったわけでもないのに。』
 そんな風に、戸惑った記憶がある人も多かろうと思います。
 別に、驚かそうとかいう気持ちがあったわけでもないんです。
 我ながら、ちょっと首をひねる場面がないわけでもないけれど、
 それでも、気持ちがあるから贈るわけです。
 ちゃんとその人と成りを見て、
 「喜んでくれるかな?」
 ということを一応は考えて贈っているわけで、
 そのモノ一つ一つには、
 どこかに私なりの意味が必ずあるということは、言えるんですよね。


例えば、後輩の高校卒業祝いの席で、
 同じCDを十数人に贈ったことがあります。
 (ジョージ・ウィンストンの『All the Seasons of George Winston』)
 同じCDを贈ったというのは、
 どの後輩に対しても差別をしたくないということもありまし、
 当人達は気付かなかっただろう、
 小さな意味を込めていました。


 音楽っていうのはずごく個人的な趣味に左右される物で、
 流行歌ひとつにとっても好き好きがあり、
 一つ間違ったらとんでもなく邪魔な物になりかねない、
 そんな贈り物です。
 「そんなのだったら、個人で好きなように使える音楽ギフトカードを」
 そう思った人も多かったと思います。
 同じCDじゃあ、交換して聴くこともできないじゃない、と。
 でも、それじゃあ、
 贈り主(こちら)の気持ちが形にならない。
 『物より思い出』というキャッチコピーがありますが、
 【物にだからこそ込められる気持ち】も、あるんですよね。


 そこまで承知の上で敢えて贈った意味というのは、
 「文化を残したかった」からなんです。
 簡単に言えば、
 「同じ音楽を同じ時期に聞いて欲しい」ということです。


 ある一定の年齢になると顕著に感じることだろうと思いますが、
 昔の話題を思い出しながら話しているときに、
 そういえばあの時はこんな音楽が流行っていて……とか、
 そう言った話題は必ずと言っていいほど出てきます。
 それが本だったり漫画だったりゲームだったりと様々ですが、
 「一緒に何かを体験した」ということに対する共感というのは、
 ずっと後々まで、話題になるかけがえのない財産です。
 ただ単にクラスが一緒と言うだけであっても、
 修学旅行や移動教室、学園祭や飲み会・イベント・旅行などなど、
 「一緒に何かを体験して、共感することが一つでも多かった人間」
 それがそのまま、かけがえのない友人になってゆくのですから、
 その共有する体験の一つ一つは、
 人と人とを結びつける、
 ごくごく小さな、けれどもとてもかけがえのない、
 接点に他ならないわけです。
 そしてたくさんの人間が同じ体験をするというのは、
 その小さなコミュニティの中で紛れもない
 「文化」につながってゆくんですよね。


 私が友人となるべく多くの時間を割きたいと願うのも、
 それから、このホームページを始めとして、
 旅行やイベントなどのアクションを起こすのも、
 すべては「体験の共有」を望んでいるから。
 考え方の違いはあって当然、
 趣味趣向、物の好みも違って当然、
 でも、「同じ時期に同じ体験をした」というその一つ一つが、
 その友人の輪を少しでも強くすることは、
 間違いのないことなんだと私は考えています。
 
 もうそろそろ、
 言わんとしていることは汲み取っていただけたかと思います。
 
 どんな時でも、どんなに普通の生活をしているときでも、
 私が贈り物をするときは、
 必ず相手との距離の近さを感じているとき。
 そして、
 小さな話題の一つとして、
 「こんなのは、どうかな?」
 と、普段の生活にちょっとしたアクセントを付けたい時。


 節目や祝い事というのは、
 きっとそういう事だと思うんですよね。
 冠婚葬祭に限らず、
 日常とはちょっと違う“特別な体験”を共有することで、
 一層の親近感を得ようとすることなんじゃないかな?


 だからどうか御願いだから、
 大袈裟に考えないで欲しいんです。
 返礼がどうとか、
 貰っちゃって悪いだとか、
 そういう余分な気遣いは野暮というもの。


 相応しいと思うものしか贈りませんし、
 分不相応の背伸びをしてまで贈るような無粋な真似はしません。
 そうでなければ、
 こんなに自分の趣味の物ばかり贈ることこそ、
 常識的に考えてどうかと思ってしまうことじゃないですか。


 趣味が合ったら、
 それをきっかけに話題が増えればいいし、
 趣味が合わなければ、
 「しょうがないなぁ、あいつは全く。」
 というぐらいの心積もりで居てくれる方が、
 こちらとしても、気楽なんですよね。


 そんなわけで、
 どんな突拍子もないものを贈られても、
 あんまり驚かないで下さい。
 また、いっぺんに同じ物を贈られるときもそう。
 友人同士で同じ物を揃って身につけることも、
 それはそれで恥ずかしい・こそばゆいというのも解ります。
 でも、
 四六時中一緒というわけでもないし、
 社会に出れば尚更、
 そうそう簡単に会えるわけでもなくなってきます。 
何か一つ、
 そういう気持ちが形になったものがあると、
 それはそれで良い思い出になると思うんですよね。
 それが、気心の知れた友人なら特に、ね。


 いかんいかん、蛇足になってしまいました。(笑)

 まだまだ私も、
 たくさんの人に物を贈ることになるでしょう。
 そしてみなさんも、
 大切な人に大切な物を贈る時が来るでしょう。
 そして、
 贈り物も楽しいよな、と思えるようになったら。
 きっとその人との関係もずっと深い物になるんじゃないかな。


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<note>
2000.12.12 遊覧航路HP書き下ろし
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・「それにしても、プレゼントを贈るのはつくづく難しい。
  何よりも相手に喜んで欲しいし、なるべくなら吃驚させたい。
  自分の趣味を押しつけても迷惑なだけだし、
  相手に合わせ過ぎてもつまらない。
  自分の趣味の物はいくらお金を出しても惜しくないし、
  本当に欲しい物は自分で買いたいとも思うから、
  中途半端に囓っただけの相手の趣味の物も
  逆に迷惑になってしまうかもしれない。
  安い割に良い品物が見つかればよいが、
  高価すぎて相手に気を遣わせるのは気が引ける。
  欲を言えば、
  その贈り物がきっかけで
  新しい趣味を見つけるようなことがあれば最高なんだけれど、
  相手が気に入るかどうかは最後までわからないし、
  わからないからこそ、面白いのだろう。」
 そんなことを、博物屋の第1話で書いた。
 今も物を贈る時には、割と考えてしまうのは確か。
 でも、それが楽しい。
 だからこそ、やめられない。
 悪い癖なのかも、ね。(笑)