ちょっといいですか?
 図書館通信編 第1回「秋風にそぞろ歩き」

 ─また、あの風が吹いている─

 吹きすぎる風が心地よい。
 冬に近づく一歩手前の、ほんの数日にしか吹かない風
 ─ほんの少しだけ湿り気と暖かみを帯びていて、
  一枚の長袖シャツで丁度いい─


 いわゆる春風をもっと透明にしたような、
 独特の肌触りが程良く心地よい。
 花煙に薫るような奢りがない、
 どこかに冬を匂わす密(ひそ)やかな寂しさ。
 ─ゆるやかに移ろいゆく季節の曖昧さ─


 書き出しから妙に感傷的になってしまったけれど、
 私はこの時期の風
 ─特に夜風が─ 
 風の中で一番好きなのだ。


 いつも同じ時期にこの風が吹くわけではなくて、
 ある年は11月中旬、
 またある年は遅くなって12月の中旬、
 今年は少し早くて、9月の末に吹き過ぎた。
 この風が吹くまでは、あったことすら忘れているのだが、
 一度この風の中に身をおくと、鮮烈に感傷が湧きあがる。
 ─あの風が、吹いている─


 何のことはない、ただ一陣の風である。
 しかし、私にとっては妙に感傷的で、
 そして何故か落ち着く風なのだ。
 そして、この風が吹く頃になると、
 私は決まって調子が良くなる。
 何故かは解らないし、思い過ごしかもしれない。
 でも、関係があるんじゃないか? と、私は考えていたい。


 また、この風が吹くのはほとんどが夕刻
 ─午后6時ごろであろうか─
 もう、夕闇に覆われている頃ではあるが、
 不思議と、いつもより暖かい。
 
 見上げれば
 ─私は、良いことがあると空を見上げるという妙な癖がある─
 東京の空に星が瞬いている。
 なにもかもが出来すぎた夜、 
 私はとても様々な場所で、飽きることなく空を見る。
 暖かい風は長袖を緩やかに通り抜け、
 風邪を引くこともなく、優しく私を包む。
 環状六号を行き交う車の音、
 遠くに見えるサンシャインのスカイデッキ、
 その横で、秋風に黄色い葉を飛ばす銀杏の樹、
 見慣れたはずの景色が、仄かに彩りを増す。
 そんな嬉しい錯覚を、この風は私にもたらしてくれる。


 感情を思い出す
 ─というより、
  切り出された感情が自分に戻ってきたような感覚─
 というのは、みなさんにもあるのではないだろうか?


 あるいは、デジャヴュの一種かもしれないが、
 この感覚は、筆するになお、少々のためらいが残る。
 些末な風にさえ心を踊らされる自分が恥ずかしくもあり、
 また、一面で感傷を重んじる自分とせめぎ合う。
 それが、歯がゆいのだ。


 一度だけ、
 クラブの同期達と夜遅くまで学校に残り、
 屋上の掲揚台から、夜景を楽しんだことがある。
 新宿には今ほど高層ビルはなかったし、
 私の背も10センチ以上、低かった。
 身が竦むほどに高い掲揚台の上で、
 友達と見た新宿や中野の夜景。 
 写真が無くても、
 今でも鮮明に思い出すことが出来る。
 他愛のない、希望だらけの将来の話もしたっけ。
 やがてくる現実の前の、ほんの小さな出来事だったけれど、
 そんなことをするだけの小さな余裕も、
 いつの間にか無くしてしまった。


 私たちの年代になると、
 自分たちの能力や可能性の限界に、
 ある程度気付いてしまう。 
 厳しい現実を前にして、
 感傷はただの逃避行動に過ぎなくなってくる。
 やがて来る輝かしい未来のために、
 犠牲にしなければならないことを、
 いちいち指を折って数えている暇(いとま)はない。


 思い出は、古びた出来事自体に意味があるものではない。
 その出来事の前後にあった、
 感情や感傷・ドラマがあってこそ、
 思い出は色鮮やかに動き出す。
 写真だってそうだ、
 自分の中の確かな想いがあってこそ、
 その写真は懐かしく昔を語り出す。
 思い出を残すということは、
 いかに自分が多くのことに感入出来たか?
 ということに他ならない。


 感傷を抱くこと、
 それはなにも恋愛感情だけにあるものではない。
 日に日に感情を殺すことを覚えてゆく君達でも、
 “感じること”を止めて欲しくない。
 「男だから、そんな軟弱なものいらない!」と言う人、
 それはたぶん、悲しい勘違いだ。
 なにも、
 むやみやたらに自分の世界に浸れと言っているのではない。
 「自分であること」というのは「自分を感じること」だと思う。
 “感じること”はそのまま“想い考えること”に繋がってゆく。
 学校の夜景のようなほんの些細なことでさえ、
 今ではする事も出来ない。
 大学推薦を目の前にして、
 誤解を招くような冒険をするほど、私には度胸がないからだ。
 それが、現実。
 しかし、このように少しずつ制限されてゆくことに、
 慣れてしまいたくはない。


 だってそんなの、つまらない。
 世の中、感情が無さ過ぎる。
 ソンナコトより大切なことって、
 たくさんあるじゃないか。


 推薦図書にあるような立志伝・努力伝を押しつけて、
 「立派な大人にになれ」
 と、声高に叫ぶ大人達。
 それって何か、変じゃない?
 自慢げに書かれた“陰ながらの努力”
 違うだろ? 
 努力って、人にひけらかすものなの?
 それが立派な、大人?
 
 私は、今を十分に楽しんで生きてゆきたい。
 苦しみを避けることが出来ないのなら、
 楽しみを見つければいいじゃないか。
 努力とか根性とか言いながら、
 苦しみばかりを見据えて生きる一生なんて、
 どこが面白いんだろう。
 努力とか根性って言葉は、
 「やらなければいけないと強要されていること」や
 「理不尽な制度」に、
 無理矢理自分を順応させているに過ぎない。
 なにか、自己満足的な言葉だと思う。
 だから私は、どうも好きになれない。


 別に怠惰で言っているのではない、
 そうやって、
 自分を追い込んでいくことに耐えられなくなっただけ。
 弱い人間なのである。


 だからこそ、私はあえてここで訊きたい。
 『そんなにたくさんの犠牲を払って、
  あなたは一体何を得ることが出来たんですか?』
 富? 名声? つつましい生活?
 それがどうしたの?


 私だって、努力が嫌いなわけではない。
 犠牲を払ってまでしなければいけないことがあるのも、
 解っているつもりである。
 でも、犠牲を払うことが“美徳”とは思わない。
 “犠牲”を“努力”として飾り立てるのは、
 無理に自分を正当化して、
 一生懸命に自分を納得させようとしているようで、
 なんだか滑稽だと思う。


 どうしてそうやって、
 自分を追い込んでいくんだろう。
 こんなに気持ちの良い秋風の日にも、
 自分を殺して、
 感情を殺して、
 精一杯努力して。 
 「つつましやかな幸福」の為に、
 何を犠牲にするのだろう。
 
 穏やかに暖かな秋風は、
 こんなにも幸せを運んでくれるのに。


 
 私の周りを吹き過ぎた、たった一陣の秋風から、
 私の想いは様々にそぞろ歩きしてしまった。
 遅筆である私が、
 こんなにすらすらと書けた文章はひさしぶりだ。
 まぁ、奥歯に物が挟まったような、
 かなり抽象的で不格好な文章になってしまったけれど。


 あの風の微妙なニュアンスが
 ─あるいは一種の錯覚かもしれないが─
 薄れはじめた感触と共に、
 まだ私の中の感傷を揺さぶっている。


 ─今夜は眠れそうにない─
  

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<note>
・初出:某大附属高校図書委員会発行の機関誌
    図書館通信(平成6年 第6号)1994.10.28発行
・加筆修正:2000.09.30 遊覧航路
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・「小賢しい文章だなぁ」と、
 手直しをしながら赤面してしまった。
 色々と小手先の表現を使ってみたくて、
 脳が喋るまま、
 推敲もせずに書ききった覚えがある。
・でも、
 今続けている「趣味人」の原点にあたるような、
 そんな「感情発露系」の文章です。
 さんざんけなしていますが、
 これでも、気に入っているんです。 
・図書館通信時代の文章を復活させるのに、
 さんざん悩んだ末に登場してもらったものなので、
 やっぱり、思い入れも一味違います。
・自分を追い込むことで鼓舞していた時期だけに、
 文章にかなりの切迫感があります。
 自己肯定と自己否定で揺れて、
 かなり分裂していたみたいです。
 でも、それは無意味じゃなかったし。
・時を経て今年、
 久しぶりに「屋上で夜景を見たメンバー」が揃った。
 それぞれの生活は、
 あの日に求めたカタチと異なってはいたけれど、
 それぞれにあの日の延長として、
 しっかりと歩んでいる姿が見て取れました。
・あの日の風は、
 また私を緩やかに包み込む。
 暖かいだけの風ではないけれど、
 毎年同じように、
 振り返る時間を与えてくれます。