二十三夜(にじゅうさんや)

 夏の名残が色濃く残り、暑さが湿気を帯びて肌にまとわりつく晩夏。暦の上では初秋を示しているものの、秋祭りの行われる9月初旬では長袖を着るにはまだ早く、浴衣やTシャツなどでさえ、熱気と湿気を帯びた空気に汗が滲む。
 村を見下ろす連峰の中腹に小さな社があり、毎年この時節になると秋祭りが催される。娯楽の少ない田舎の村では、このような小さな集まりでさえ一際の活気を帯び、村全体が異様な熱気に包まれる。しかし、生まれつき貧弱な体格の俺にとって、力にかまけたような御輿とは縁遠く、小さな地域社会の鬱憤を晴らすかのような熱狂には疎ましさすら覚えていた。
 中学高校の頃、露店の店先の華々しさに惹かれ、二晩・三晩と続く夜祭りに騒いだこともあったが、年が経つにつれて、秋祭りに対する熱病のような情熱は次第に冷めていった。ましてや、死を覚悟してこの地に立つ人間にとって、もはや祭りなど何の意味を持つのだろう。しかし、見納めとも言って良いこの光景に、しばらく感慨に耽るのも良いかも知れないな。そんなふうに思って、俺は先ほどから石段に腰を掛けている。
 祭りの中心は山を下りた場所にあるちょっとした広場で、社殿や神楽殿などのほとんどはこちらにある。御神体である鏡も祭りの期間は下の社殿に移され、神楽の奉納が盛大に催される。村の中心部より細々と伸びる参道の石畳は露店で賑わい、大勢の浴衣や着物達でごったがえしている。
 それに引き替え、俺の居る奥宮の静かなこと。50に手の掛かる中年が佇むには誠に好都合な、うら寂しい境内である。薄朱い提灯の列を見下ろすように、奥宮の石段に腰をかけている。幅も狭く勾配の急な石段は所々が苔むし、朱に塗られたの榊(さかき)で組んである鳥居も、心なしか傾いて見えた。小さな社殿には申し訳程度の注連縄(しめなわ)が巻かれ、齢(よわい)1000年にもなる犬楠の梢の合間に、沢山の星が見え隠れしている。この社の更に裏手には、かつて立派な寺があったらしい。村ではこの神社を「母神様(もがみさま)」と呼ぶが、それもこの頃の名残だそうだ。神社の方の縁起は、廃仏毀釈の頃に国策で神道の神が合祀され、より村の近くへという合理的な理由から、下に神社が造営されたということらしい。学生の頃、村史を紐解いたときに偶然出てきた民俗資料に、確かその様なことが書いてあったが、興味がないので子細は覚えていない。今となっては、小さな泉の湧く鍾乳洞と石塔の立つ塚を残すのみで、山腹の小さな社殿の裏で、その存在すら忘れ去られたかのようにひっそりと松林に埋もれていた。

 澪と出会ったのも、秋祭りの晩だった。大学の級友と露店を渡り歩くのに飽き、人気のない奥宮へと登った石段の際に、彼女が独りで座っていた。既に日付が変わってから相当な時間が経っており、若い女性が独りで居ることに、些かの違和感を覚えた。
「こんな時間に人が居るとは、珍しい。
 下の祭りには、行かれないんですか?」
 彼女はしばらくぼんやりと下の喧騒を眺めていたが、−熱気に当てられちゃって−、と小さな声で答えた。紺地に朝顔という華やかな浴衣は彼女に似合っていて、ごく簡単にまとめられた髪と薄目の紅さしが、その若さを際だたせている。しかし、折角の紅も青白い月明かりでどこか翳りを帯びて見えた。俺も気怠くてここに来たんだと、その時はそんなような会話をかわしていただけで、お互い別段深く関わろうとはせずに、昇りゆく下弦の月の下で、物憂い夏の名残を眺めていた。

 大学の講義が再開し、専攻である地質の合同調査で地方の遺跡を巡っていたときに、偶然コンビを組んだのが彼女だった。運命の再会と言えば格好がつくが、お互いそれ程に思い焦がれてわけでもなく、偶然は偶然として一頻(ひとしき)りの話をした後で、遺跡調査の作業に没頭していった。彼女は民俗が専門らしく、出土する“環”や“玉”について、祭祀的な解釈を用いて説明してくれた。長靴に作業ズボン・髪はただ乱雑に束ねるだけで、顔には汚れた手で汗を拭った跡の泥が付いているといった恰好、とても秋祭りの夜の艶やかさはなかった。しかし、良く笑い良く喋り、特に各地方に伝わる様々な民間伝承の話をするときの熱を帯びて上気した表情が何とも言えず、俺は次第に彼女に惹かれていった。
 数ヶ月に及ぶ合同調査が終わる頃、意外なことに澪の方から告白してきた。別に意気地がなくて言いそびれたわけでもないのだが、なんとなく女から告白されるというのは抵抗がある。主導権を握られたというのか、どうも、こう、しっくりこないのだ。それは今でも変わらない。
 まごまごしている内に彼女のペースとなり、気が付いたら、俺の家に上がり込んで一緒に生活するようになっていた。大学を卒業してからは小さな測量会社に就職したこともあって収入は少ないながら安定し、時にとろけるように甘く・時に意見が食い違って細波が立つものの、そんな生活もまんざらではなく、お互いにお互いを無くてはならないと思い始めた頃、内々で婚約を交わした。
 取りたてて秀でる所のない、平凡な女だった。生真面目でも不真面目でもなく、良妻にも悪妻にも成り得ない、実にしたたかな女だった。ただ一つ、虚構を組み上げて体裁を繕うようなところが一切無く、生成(きなり)の素朴な感情が、俺にはとても心地よかった。若さにかまけて激しく求めるでも、熟れすぎた桃のように芳醇な艶やかさで誘惑するわけでもなく、付かず離れず、それでも遠浅の汀(みぎわ)に寄せる波のように、静かに体を重ねあった。
……永遠に愛でるべき愛おしい女だった。

 友人の武雄(たけお)が、澪に横恋慕しているという話を聞いたのは、暮れも押し迫った母神様の煤払いの晩だった。もともと、体格も良く腕っ節の強い武雄とは反りが合わず、彼が活躍する恰好の舞台でもある秋祭りは、小さくささくれだった嫉妬心と、自分の器の小ささへのやりきれなさから、絶望的な程に憂鬱になった。そういう俺を見下すかのように、秋祭りの晩には必ず、地区の寄り合いに俺を呼び寄せた。母神様の煤払いも、地縁的な寄り合いによって毎年当番で行われる。翌年の年男の中で、24歳になる男が集められ、元旦に行われる札取りの神事の必勝祈願を込めて、社殿を磨き上げるのだ。
 その煤払いの晩、武雄は一番札の栄誉を自分が頂くという勝利宣言をした後、「一番札の願掛けとして、澪をモノにする。」と群衆の面前で糞忌々しく言ってのけた。
 元旦に行われる札取りの神事は、齢24になる村内の男子全員が強制的に参加させられ、入相の浜から母神様の奥宮までを走りきる一種のレースで、除夜の鐘を合図に、松明(たいまつ)を手に奥宮で貰える札を目指す。しかし、毎年のように怪我人が続出するのは、一番札の栄誉に輝いた者は、気に入った娘に求婚できる(但し、相手が既婚者は除く)という古式じみたしきたりに因る。断らないことが暗黙の了解になっており、実際、拒むことなどできなかった。
 きっと、武雄はこの機会を虎視眈々と狙っていたのだろう。剛胆な割に狡猾な奸計を巡らす武雄らしく、周囲には澪への思いを一切うち明けずに、ひたすらこの時を待っていたのだ。俺はすっかり油断していた。澪との婚約は内々の形式に過ぎず、役場に届け出の1つも書いては居なかった。それは武雄も承知のことらしい。狼狽して澪に打ち明けるが時既に遅く、役場は御用納めを済ませた後だった。武雄は勝ち誇ったように声高に笑い、その野卑て歪んだ顔が、しばらく俺の頭から離れなかった。

 初(はな)っから勝ち目のない戦いではあったが、俺は懸命に食い下がった。石段で両端から掛けられる冷水に凍え、あちこち殴られながらも、最終的には武雄の真後ろに食らいつき、ひょっとして逆転か?と思えたその瞬間、武雄がゆっくりとこちらを振り向いた。
『俺もな、昔っからお前が気にくわなかったんだ。
 指をくわえて見てるんだな!』
顔面が火を噴いたように熱くなり、殴られたことを知った。ゆっくりと崩れゆく視界の端に、武雄が石段を登りきって一番札を手にした姿が映った。石段を転げ落ちて行く俺を、醜く歪んだ勝利者の笑みで見下ろしていた。

 翌日の武雄は英雄だった。一番札を取った者は村一番の栄誉を惜しみなく注がれ、実際、どのような無理もまかり通った。熱病に冒された者共に祭り上げられ、武雄は全てを手に入れた。熱に熟れた女共は競って武雄を求め、武雄も拒むことなく群れ成す者共を受け入れた。ギラギラと狂った欲望の発露も、「英雄色を好む」の一言でむしろ好ましく受け入れられる。力と血縁・家柄が全ての地域社会は、往々にして歪んだ野獣をも手放しで歓待するのだ。
 澪は元旦の内に武雄の家へ連れて行かれ、村のしきたりに準じてその日の内に祝言をあげた。誰もが憧れる武雄様に見初められた三国一に幸せな娘、世間はその様に澪を迎えた。女共の、器量もそれほどではない澪への嫉妬は凄まじいもので、邪眼めいた射抜くような視線が澪のそこかしこを痛々しいほどに貫いていた。もちろん、その席上には当然のように俺も参列しなければならず、数カ所の打撲と骨折という惨めな姿で、生き恥を曝す羽目となった。抜け殻のようにうなだれる澪を初々しいと勘違いする馬鹿者共を前に、俺は自分の無力さに地を噛(は)む程の悔しさを覚えた。
そう、その日を境に俺は全てを失った。

 しかし、武雄の英雄としての日々も長くは続かなかった。数日の後には澪が失踪し、更に数日の後に、奥宮の洞窟から死体で見つかった。義理の夫である武雄に宛てた連綿と連なる怨叉の言葉と、俺に宛てた数行の遺書を残し、蒼く透き通る地底湖へ身を投げたのだ。その死体は数日という時の経過を感じさせないほど、美しかった。
 そう、初めて出会った秋祭りの晩のように青白い憂いを帯びた美しさで、暗く静かな水面(みなも)に浮かんでいた。
 武雄は従順な女を澪に望んだ。物静かで受動的な“捧げる女”を望んでいた。浅はかな武雄は、“静かな女は従順だ”と、身勝手な先入観で澪を見、波長の合わない人間と関わらないだけの澪を、“全てを受け入れる女”だと勘違いしていた。物静かな女こそしたたかであることを、多く語らない人間こそ芯が強いことを、彼は理解していなかった。
 澪は、物静かな女だった。そして、どこまでもしたたかで芯の強い女だった。

 武雄が発狂死するまで、3日とかからなかった。村人は母神様の祟りと噂をしあい、また、俺が呪詛の類を母神様の奥宮で行っていたなどという根も葉もない流言も飛んだ。『寝取られた男は何をするかわからない。』と。頭が狂ってるのはお前等の方だ、ありもしない呪いで人が殺せるなら、お前等はとっくに皆殺しだ。
 澪の亡骸を、武雄の遺族は引き取ろうとしなかった。一族に害を成したものの祝言など、無効だというような口振りだった。しかし、俺はそれの言葉を聞いて、逆に安心した。死んでまで、あのような家に縛り付けられるのは、きっと澪の望むことではないと思ったからだ。
 困ったのは、墓地はおろか、火葬場までもが澪の受け入れを拒否したことだった。閉鎖社会とは恐ろしいものだ、平等を謳う行政や宗教でさえ、誰も澪を救おうとはしない。俺はつくづく嫌気がさし、濡れそぼった死体を背負って入相の浜まで行き、薪を組んで焼いた。……鼻につく焦げた匂い、炎の中に崩れ落ちて行く四肢、気が付いたら、俺は嗚咽を漏らしながら砂を叩いていた。
 全てが、狂っている。村全体が、狂気を帯びている。昔から感じていた小さな違和感。それはきっと地域社会という閉鎖空間を「はみ出すことへの恐怖」だったのだろう。村の全てから拒絶され、浜辺に吐き捨てられた今となっては、それが逆に滑稽に見える。狂っているのは、きっと俺の方だ。村全体が狂っていて、俺独りだけが正常だとしても、狂っているのは、やはり俺ということになるのだ。
「俺は、狂っている。」
 だったら、俺はせいぜい狂い抜いてやるよ。炎に崩れゆく澪の亡骸を前に、俺は狂ったように笑い、涙を流した。堤防の上から遠巻きに見ている村人が居ようが構わない、せいぜい好きに吹聴するがいい。なにしろ俺は狂っているのだ。今更何をしたところで、たいしてかわりゃしないさ。
 堕ちてゆくことは、妙な快感を伴っていた。もともと、転落願望が強かったのかも知れない。はみ出すことへの恐怖が消えた今、もはや自分を押さえるものは何もない。
 澪は生前、墓地にはいることを頑なに嫌がっていた。−死んでまで、あんなに陰気くさいところに永遠に閉じこめられるなんて、考えただけでもゾッとするわ。−「じゃあ、散骨はどうだい? 海でも山でも湖でも、好きなところに蒔いてあげるよ。」−それも嫌よ。だって……、海の底は冷たいし、山だって雪が降ると寒いわ。魚や熊に食べられるのだって、あんまり考えたくないと思わない?−そう言って、澪は布団の中で小さくまるまっていたっけ。情事のあとの気怠い時間に、ネコのように丸まりながら、冗談のように死を見つめていた澪。
「じゃあ、死んだらどうするのさ。」
−んー……。笑わないでね、絶対。約束できる?−
「できるさ。」
−あたしは………、千尋に食べて貰いたいわ。−
「……食べる?」
−うん。ずっと千尋の心と躰の中で、生き続けたいから。
 千尋の見る世界を、ずっと一緒に見ていたいから。−
「でも、俺1人で全部食べるのは大変だなぁ。
 途中で腐っちゃうよ。きっと。」
−茶化さないでよ。大真面目なのよ、あたしは。
 肉はね、私を形作ってる殻に過ぎないの。
 何枚もの仮面(ペルソナ)を纏った肉人形でしかないのよ。
 だから……生き方の染みついた、骨を食べて欲しいの。−
「……骨? 硬そうだなぁ。」
−簡単よ……。良く焼いて、金槌で叩いて崩したら……−
「崩したら?」
−骨も砕くフードプロセッサーって売ってるぢゃない、通販で、
 あれでも買ってきて、粉にして、御飯と一緒に炊いてもいいわ。−
「お前なぁ……。どうしてそういうところだけ所帯じみてるかなぁ。」
−だって、いくらあんただって、
 骨のままあたしをボリボリは食べられないでしょ。−
「まぁ、そうだけどさ……。」

 澪の死体の見つかった晩、アパートに俺宛の小包が届いた。割と大きな段ボールに、綺麗な薔薇の包装紙がかかっている。……差出人は澪だった。
 包みを破るように中を開けると、例の、【骨も砕くという宣伝文句のフードプロセッサー】が、数々のアタッチメントと一緒に箱の中に小さく収まっていた。しかしその時は、気が動転していたこともあり、何に使うのかまで頭が回らなかった。

−……タ……ベ…テ……−
 耳の奥の方から、澪の声を聞いた。
 真っ白に焼け崩れた澪の亡骸の前で途方に暮れていた俺の耳に、確かに澪の呼ぶ声がした。
−……千……尋………私……を…食……べて……−
 それは、波のように近づいたり、遠ざかったりしながら聞こえてくる。感度の悪いラヂオのように途切れ途切れで、しかも棒読みのように単調で妙にくぐもっている。しかし、それは聞き違うことのない、澪の声だった。
−イッショニナロウヨ−
 そして、昨晩送られてきたフードプロセッサーの意味を理解した。
「……わかったよ……。」
 澪は、本気だったのだ。
−ネェ、チヒロ。オネガイヨ。−

 俺は……、本当に狂ってしまったのかも知れない。
「食べてやるよ、澪。」
 岩石調査に使う、重いハンマーを振り降ろす。
「ちょっと痛いけど、勘弁してな。」
 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ
 フードプロセッサーが唸りをあげ、次々に澪を粉末にしてゆく。
 スイッチを止めると、ポハッと、小さな粉煙を上げてプロセッサが止まる。
 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ
 そしてまた、小さな破片を呑み込んでゆく。
 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ
 密閉壜には、クリィム色がかった上等な粉が満たされて行く。
 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ
 俺は無言で、単純作業に没頭していった。
 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ
 俺の……澪……。
 ガガガガガガガガガガ……。
 アパートには一晩中、プロセッサーの唸り声が響き、そして俺は、七日七晩かけて、ほとんど眠らずに澪の欠片を食べ尽くした。ときどき澪が白昼夢に出てきては、−ウレシイワ、チヒロ− と、無表情な顔で俺を抱きしめた。

 必然として村を追われた俺は、職を変え、村を出て小さな古美術商を開き、時の過ぎるのを待った。数年の後には結婚し、小学校になる子供が居た。妻は得意先の娘で、容姿の上では可もなく不可もなく、平凡を絵に描いたような女。そのくせ、イニシアチブを取りたがり、言いたいことだけを主張した。私は初めから彼女が嫌いだったが、相手が勝手に熱を上げてしまった。パトロンを得るための、選択の余地のない結婚だった。 そして、澪との過去が妻にばれたのは、ほんの1週間程前のことだ。いずれは話すつもりであったが、妻は頑として私の言葉に耳を貸さなかった。
「それで、私の事なんてちっとも見てくれなかったのね。」
未練がましい女だ。頭に血が上ると斜視になるのも気に入らない。眼鏡の奥から除く冷淡な瞳。何度見ても虫酸が走る、嫌な面だ。
−あたりまえだろ。お前となど結婚するつもりもなかったのに。−
体の中にいる澪のことを忘れられるわけもない。
《そうよ、忘れられるわけがないわ。私とあなたは、ずっと一緒なんだから。》
頭の中で、澪がいつものように話しかけてくる。
あれ以来ずっと、澪は俺の頭の中に住んでいる。
そして、澪はいつも唐突に話しかけてくる。
食事中でも、仕事中でも、義務となって久しい妻との情事の最中でも……。
澪は俺の頭の中で悶え、その度に俺は澪に対する罪の意識に苛まれていた。
 そんな虚構の幸福が長く続くはずのないことぐらい、俺には解っていた。最初から俺には澪しか居なかったのだから、離婚の際、家内が雇ったらしい弁護士にどう考えても払えるはずのない法外な慰謝料を請求されても、家内に似て可愛気の欠片もない息子の養育権を失っても、俺はなんの苦痛も抱かなかった。そんなことなど最早どうでもよかった。再び全てを失って、逆に「やっと2人になれたね。」と、ひどく清々した気分になっていた。
 妻との訴訟が始まるか始まらないかの頃に、家内と息子が交通事故であっけなく死んだ。しかし、俺にはそんなことはどうだってよかった。葬式にだって出てやる義理もない。死んだって構うものか。あいつは俺にとって邪魔な存在でしかなかったのだから。
−アラ、ヨカッタワネ。−
澪が頭の奥で声高に笑った。

 しかし、その3日後になって、どういうわけか俺の頭の中で澪の声がしなくなった。必死に呼びかけても返事がない。本当にプッツリと、急に澪が頭の中から“居なくなってしまった”のだ。
 俺は狼狽えた。「澪が居なくなった。」「俺の澪が居なくなった。」「どんなときでも一緒と誓った俺の澪が居なくなった。」どうして良いかも解らず、最初の内はただただ悲嘆に暮れていた。しかし、数日の後に、悲嘆は既に無意味だと知った。もともと、脳に澪が語りかけてくるなんて、常軌を逸した話ではないか。そんな幻聴に近い澪との繋がりの全てが微妙で、いつ壊れてしまっても不思議ではない状態だったのだ。そう言い聞かせながら俺は全てを諦めた。そう、生きることを含めた全てを。
 妻と別れてから借りた安アパートで何もしない毎日が始まった。小さく膝を抱え、ほとんど何も食べず、じっと天井の木目を見ていた。生きる意味なんてものは、もう疾うの昔に見失っている。何もかもが億劫で、何をする気力も湧いてこない。食べることも、終いには寝ることさえも面倒になった。自分がいつ起きて、いつ寝ているのかさえも区別が付かないほど、ただゆっくりと、そして恐ろしいほどに緩慢な日常が過ぎていった。
 どのくらいの時間が経った頃だろう、いつしか天井の小さな節や年輪が、次第にぼやけ歪みはじめ、気が付いたら澪の顔に見えるようになっていた。それは、既に夢の中での出来事かも知れないし、単なる幻覚なのかも知れない、しかし、そんなことはどうでもいい、澪の姿が見られるのなら、それで良かった。そして、次第に様々な表情を見せるようになった澪を見守りながら、緩慢な眠りへと落ちていった。

−千尋−
 天井を見続けるようになって何日目かの夜、厳密に言えば昼か夜かなんてことはもう感覚の外ではあったが、確かに澪の声が戻ってきたように感じた。その声は余りにも遠く、頭の中に薄ぼんやりとした霞がかかったように頼りない声だった。
「澪か?」
−うん−
 しかし、その声は今まで脳に響いていたような突き放した声とは違い、全てを包み込むように暖かく、それでいて淋しそうな声だった。その雰囲気で、用件は自ずと理解した。
「そうか……とうとう迎えに来たんだな。」
 それを自然に受け入れられるだけの心の準備は既に出来ていた。
−そうなの。でも、その前にひとつだけ、お願いしたいことがあるのよ−
「どうせ死ぬんだ、なんでも言って見ろよ。」
−あの晩、秋祭りの晩に見た月が見たいの……今日、あの場所で−
「今日は、秋祭りなのか?」
−ずっと待っていたのよ、
 あの晩と同じ二十三夜の月が、秋祭りの日と重なるのを−
「どうして?」
−“月待ち”よ。
 二十三夜の晩に昇る月に願い事をすると、願いが叶うって言われているの−
「何を願う。」
−ずっと、一緒にいようって……お互いが死んでも……−
「そうか、それがお前の望みなら、そうしようじゃないか。」

 自分でもそんなに体力があるなどとは到底思えなかった。なにしろ、いつ餓死してもおかしくないほど、長い間、食事も水も摂っていなかったし、閉じこもっていた数ヶ月、日の光すら浴びずに、ただ座っていただけなのだ。筋肉という筋肉はもはや何の意味も持たずに退化し、疾うの昔に生命を維持するための栄養に変わっていた。
 一杯の水を飲み、俺は秋祭りへと向かった。最早、無精髭とも言えないほどにみすぼらしく伸び果てた髭も剃らず、床ずれのように壊死しかけた足を引きずり、文字通り這うようにただひたすら奥宮へと進んだ。
 秋祭りの露店で賑わう参道や石段を避け、勾配の緩い裏道のハイキングコースから奥宮へと抜ける。懐かしい境内へと導かれ、ちっぽけな村を見下ろす階段へと腰を落ち着かせた。相変わらず、夏の名残の熱病に冒されたようにざわめく人並み、遠く聞こえる雅楽の音色、露店の出し物と安い油の混ざったむせるような臭い、そのすべてが作り物めいていて、死に行く自分をよりリアルに浮き出させているように思えた。
 そういえば色々あったもんだ。澪の言うとおり、見納めにせよ、この景色を見られたのは良かったのかも知れない。どんなにちっぽけな人生でも、俺はこの村で確かに澪と生きていたんだ。

−ねぇ、千尋−
「そろそろ迎えが来るのか?」
−そうね。もう、そこまで来ているわ。−
「……そうか。」

 トタタタタタタタタ……。
 石段の下の方から、小さな足音が聞こえてきた。
「なんだ、人間じゃないか。」
 その人影は次第に大きくなり、真っ直ぐに石段に座る俺のそばへ近づいてくる。
−千尋に、ひとつだけ隠していたことがあるの。−
「え? 何を?」
 その人影の面差しがハッキリと読みとれる近さになって、澪はポツリと言った。
−私達の子供よ、千尋−
 中学生ぐらいの男の子だった。それも、驚くほど澪に生き写しの子供。
 彼は、俺の前に立ち止まり、ほろほろと大粒の涙を落とした。
『父さん!』

 それは、どう考えてもあり得ない光景だった。死んだハズの澪に子供が出来るわけがない。
−私は、貴方の子供を身籠もっていたのを知らないで、地底湖に身を投げたわ。
 そうしたら、頭の上に鬼が立ってこう言うの、
 「お前は道連れにするのか? 愛しい彼の子供を。」
 出来ることなら産みたい、でも、私にも彼にも育てることは出来ない。
 だからお願いします。この子だけは助けて下さい。
 もしもこの子が助かるのなら、私は幽霊になってでも彼を育てますから。−
「その、鬼は?」
−この神社の守護神、鬼子母神よ。
 この子は地底湖を羊水として育ったの。−
「……そんな。」
『母さんはいつも僕の頭の中にいてくれたし、
 父さんの話もしてくれた。
 だから、僕はずっと父さんとも一緒だって思ってた。
 今は、ここの神主さんに大事に育って貰ってるよ。
 ホラ、父さんの親友でもあった、榊さんだよ。』
 産まれてから1度も会っていないというのに、この子はやけに親しく話しかけてくる。でも、それは決して不快なものではなく、ずっとずっと頑なに人との交わりを断ってきた俺にとって、疾うに亡くしたはずの暖かさを伴っていた。
「でも、なんで今頃になって……。」
−今日が、二十三夜だからよ−
「え?」
−千尋が本当に望む結末に、してあげようと思って−
「どういうことだ?」
−みんな、一緒になるのよ。
 ホラ、もう月が出るわ−

『食べてあげるんだよ、僕が父さんを。』
 息子は大きな鉈を取りだして、照れ臭そうに笑った。

                           (END)