▼井戸端ダァク談議▼
第5回「暗黒の墓標(前編)」

 鍾乳洞は、石灰質の岩塊が地質の割れ目などから染み出す水の作用をうけ、
 徐々に浸食されて出来た洞窟のことである。
 洞内の様子は様々だけれど、
 縦穴や横穴などが複雑に絡み合ってできているものも少なくない。
 鍾乳石が綺麗に発達しているところは、
 整備して観光化されたりするが、
 交通が不便であったり、入り口が狭い洞窟など、何らかの理由で観光洞
 にできないところもある。


 例えば、
 私達がよく探検を行っていた東京都のとある鍾乳洞は、昔は観光洞だった。
 しかし、落盤事故等で死者が出たため、長い間廃洞として放置されていた。
 いわば、「自己責任で入って下さいよ」ということなのだが、
 つい最近、地主の代替わりなどでそれすらもできなくなってしまった。
 あくまでも私有地であるため、
 「事故との関わりを心配する」のは、当然のことだと思う。
 現在は入り口にフェンスが設けられ、
 厳重に管理されている。


 そんなことを人に話すと、
 『死人の出た洞窟を探検してよく怖くないな。』と尋ねられることもある。
 そんな時、私はこう答える。
 「それを言えば登山だって同じだよ。
  それに、中央線だってしょっちゅう人が散ってるじゃない。」
 でもこれは、私なりの精一杯の強がりでしかない。


 御存知の通り、洞窟の内部は全くの暗闇である。
 閉塞で息苦しく、ジメジメして、
 好暗性の特殊な虫や生き物がはびこる、いわば異世界である。
 そんな中を探検するのは、
 どう考えたって登山や通勤電車とは勝手が違う。
 ハッキリ言って元々不気味な場所なんだから、
 気にするな、考えるなと言うのはそもそも無理な話。
 いくら慣れてきても、ふと、独り残された時など、
 「やっぱり、怖いよなぁ〜。」
 と、不覚にも思ってしまうことは多々あった。


 水没した観光道のロープ・瓦礫に埋まった旧洞、
 観光記念の書き置き・立入禁止の木柵……。
 どこかで、ひょいと白骨が出てきてもさして不思議はない。
 そんな気配がそこかしこに転がっている。
 そして、
 それがいわく付きの洞窟ならなおさらである。


 平成8年8月。僕らは禁を破った。
 入洞禁止の洞窟へのアタックである。
 公の場なので名前は出せないが、
 岩手県のローカル線のとあるトンネルの中程に
 その洞窟はある。


 宿舎の周りにはたくさんの自然洞があったが、
 ほとんどが入洞禁止の洞窟ばかりで、
 現役部員の時は責任問題があるので入洞は控えていた。
 しかし、その年はOBということで、
 個々の責任ではあっても、部活に迷惑は及ばない。
 (今になってよくよく考えれば、
  何か起これば事態はどうあれ問題はが波及するのは確実なのだが)
 しかも、同じOBの中に地底探検部に所属している者がいて、
 そこに入洞した経験があるという事から、
 ローカル線の終電が過ぎ、現役部員が寝静まった後に、
 3人のOB(いずれも大学2年生)だけで入ることになった。
 もちろん入洞前に、
 地底探検部に入っている者から細かい指導を受けてからである。


 午前0時。いよいよ入洞時刻となり、僕らはトンネル内に忍び込んだ。
 保守点検の電車が通らないとも限らない、慎重を期して突入する。


 鉄道のトンネルは、道路のそれとは違って思いの外に暗い。
 蛍光灯が何メートルかに一つ付いているのだが、
 直線に続いたトンネルの中で、
 その闇を照らすには余りにも頼りなかった。


 トンネルは無限とも思われるほど長い長い直線だ。
 ずっと遠くで両壁の電燈が収束している。
 ただ永遠にその光の点が続くような眩暈が襲う。


 砂利のひかれた線路上を歩くというのは、案外難しい。
 重い登山靴は砂利に沈み、足を取られる。
 3人の砂利を蹴る音が不気味に反響し、
 「後ろから誰かが追いかけてくる」
 そんな錯覚を起こさせる。
 枕木の間隔に合わせ、大股で走り出す。
 とにかく早く、洞口に辿り着きたかった。


 着込んだ装備に汗が伝う。
 誰も話し出そうともしなかった。


 気が付くと、私は最後尾を走っていた。  

                  (後編につづく)


←トンネル内にある洞口
  かなり不気味。


▼井戸端ダァク談議▼
 第5回「暗黒の墓標(後編)」

 最後尾を走る僕の後ろを、暗闇が追いかけてくる。
 不気味に反響する足音は、
 居るはずもない人の気配を僕の背後に感じさせる。
 何もいない、何もいない、何もいない、、、
 自分に言い聞かせ、ひたすら走り続ける。
 装備がやけに重い……。


 「ここだよ。この穴だ。」
 気が付くと、洞口と思われるアーチの前にいた。


 拍子抜けするほど、小さい洞口。
 トンネルのアーチ状の防護壁がそっくりそのまま抜き取られた形で、
 コンクリートできちんと縁取られている。
 整備用の機材場と見間違うばかりの、整備された洞口だった。
 それが逆に何か無機的で、墓所のような冷たい感覚が襲う。


異次元の扉をくぐる。
      
 洞内は一転して手つかずの洞窟が開けていた。
 しかし、汽車がこのトンネルを走っていた当時を忍ばせる黒いススが
 洞壁一面に付着している。
 ススはラッカーのように鍾乳石をドス黒く染め上げ、
 すべてを薄暗い闇の中へ沈ませている。
    
 「異様な光景だね。」
 洞窟にも色々な色があるが、
 白や茶色を全て覆い尽くすような、
 黒という色は気味が悪い。
 その意味で、
 黒いススは不気味に洞内全体の雰囲気を支配していた。


 洞窟に入って5分も歩かないところに、
 ちょっとした起伏と窪地が連続するところがある。
 洞内にしては不自然なほど、土の量が多い洞床。


 「御冥福をお祈りします。」
 3人が静かに手を合わせる。
 ここに埋葬されている、
 未だ身元の知れぬ異国の方々に……。


 こんな話を御存知だろうか? 
 『大戦中、まだ日本軍が優勢だった頃。
  たくさんの異国の人々が大陸から捕虜としてつれてこられ、
  北海道や東北の鉄道整備の強制労働を課せられた話である。
  その劣悪な労働条件から、
  多くの人々が倒れ、亡くなったといいます。
  そして、それが当然とでも言うように、
  供養もされず、平然と線路脇に埋められたんです。』


 トンネルに入る前、地底研究部の者からその話があった。
 『トンネル工事の途中で落盤事故が起こり、多数の死者が出た。
  にも関わらず、崩落によってたまたま見つかった洞窟に、
  穴を掘って死体を埋めた、と。』(注:本当の話です)
 それが、今回探検した洞窟であった。


 探検は、終始無言だった。
 それが異常なほどに急激に体力を消耗した。
    
 実際に埋まっている現場を眼にしたとき、
 私はその場に凍り付いてしまった。
 いくら落盤事故とはいえ、もう既に100年近く経っているのだ。
 そんなにも永きの間、祖国の土も踏めないばかりか、
 こんなに暗く・ジメジメした場所に置き去りにされたままだとは。


 確かに、トンネルの入り口には供養碑が建てられていた。
 しかし、現場を見た私には、
 一刻も早く移葬・安置してあげたいという念しか起こらなかった。
      
 死者を弔うには、あまりにも暗く・あまりにも気味悪い。
 さらに、誰がこの地に供養に訪れられるのだろう。
 埋まっている場所さえも、漠然としたものだ。


 しかし、僕らは入洞禁止の禁を破っている者だ。
 この件について公に口にすることは出来ない。


 それでも、このような事実が日本の各地にあり
 (その多くは北海道と東北地方にあるのだが)、
 しかも未だにこのような状況で取り残されているというのは、
 余りにもずさんで、心の痛む話ではないかと思う。


 私達はその洞窟を出た後、
 静かに眠る人々の場所を荒らしてしまったという後ろめたい気持ちと、
 なんとも言い難い恐怖感が混ぜこぜになった感覚に襲われ、
 トンネル内を一目散に駆けた。
 それは文字通り逃げるようだった。


 トンネルを出て、あがっていた息が整った頃。
 ふと見上げた空に無数の星と天の川がまぶしいほどに輝いていた。


 この天河を永遠に見ることもできずに永久の闇の中に葬られた人々。

 僕は、こんなにも悲しいほどに美しい星空を見ることができる喜びを、
 心の痛みと共に胸に刻みつけた。


 そして今、この話伝えることで、
 僕のささやかな良心が和らぐのなら。
         
いつか全ての人に晴れた日が来ると信じて……。

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<note>
初出:1996/09/07
   Niftyパティオ BNW(Books Network)
   「暗闇の雫(9話)/永遠の呪縛」
改題・転載:1996/09/20
   学校図書館問題研究会東京支部【学図研NEWS】1996年9月号
   「ちょっといいですか?(9話)/暗黒の墓標」
改稿・改題:1998/08/04
   niftyパティオ来来軒
   「井戸端ダァク談義(第16回)/暗闇の雫」
改稿・加筆:2001/08/21
   HP遊覧航路
   「井戸端ダァク談義(第5回)/暗黒の墓標」
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※:前編・後編に敢えて分割したのは、
  初出掲載時の形式を踏襲したものです。
  掲載にタイムラグを付けて、効果を狙ったためで、
  今回の掲載でも一呼吸必要だと判断し、
  連続して掲載することを敢えて避けました。
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・「新しい歴史教科書」という、
 歴史を歪曲した教科書が検定を通過し、
 一部の学校で採択されてしまった。
 このことに対し、
 戦争被害を受けた諸外国が抗議し、
 外交問題にまで発展している。
・私は社会科の教員免許を持つ一人として、
 日本の愚挙に限りない憤りを感じる。
・「作る会」の言い分として、
 自虐的な歴史観を取り去って、
 健全な精神を育てるという大儀があるらしい。
 それは、正しい歴史をふまえてこその判断であり、
 事実を隠すことが、本当の教育とはとても思えない。
・「大虐殺はでっちあげ」とか
 「三国人」とか、
 平気で発言する人間にこそ、
 真っ当な歴史を突きつけてやりたい。
 それでもたぶん、「どこの国でもやっていることだ」とか、
 さらっと言ってのけるんだろうな。
・じゃあ、それと同じ事を、
 旧ソヴィエトのシベリア抑留に対しても発言してるの?
 人の魂に民族別の重さなんか無い。
 シベリア抑留の話を持ち出すのなら、
 同じ事をしている日本も、
 それと同等の罰を受けなければならないはずじゃないの?
・「その駆け引きが外交」という人が居る。
 「それを認めたら、
  徹底的に資金援助をさせる格好のネタになる。」と。
 そんなことは解りきってる。
 でも、過去にしでかした罪の重みは、
 私達が精算しなければならないはずでしょう?
 例えばアメリカやドイツは、
 しっかりと自分たちが過去に犯した過ちを教えている。
 その上で、国際交流の在り方を教え、
 自立した人格を持つように育てている。
 日本でそれが出来ないのは、どうしてなんだろう?
・私は教育実習で、
 「物事を一つの面だけから見るな」と教えた。
 ある一方の正義は、
 別の角度では破壊者でしかないこともある。
 そして、正義の有り方など、
 その時々で変化を繰り返すものだ。
 その中で普遍的に正しいことを見つけるのは、
 いつの時代でも難しい。
 溢れる情報に流され、
 目先の利益に溺れ、
 大局を見失って沈んでゆく。
・本当に、生きた教育とは何だろう?
 実習中、私は教科に問い続け、
 ついに答えを見つけることが出来なかった。
 そして、
 見過ごされてゆく事柄を追っていくうちに、
 とてもではないけれど、
 教師として生きていくことができないと思った。
 伝えるべき事が多すぎるから、
 なのに、
 伝えきれない事が多すぎるから。
 そして、
 伝えるべき事の一つ一つが、
 限りなく深く、自分の中で消化できないから。
・私はその一つ一つを、
 こうして書き散らす道を選んだ。
 納得のゆく文章が出来た時、
 一つづつでいいから、
 確実に伝えていくことが、
 今でも自分の道だと思っている。
・読んで考えてくれるだけでも、
 私は十分だと思います。