▼井戸端ダァク談議▼
第2回「“疑う”ことの重み」
                                       
 私の実家は刑事の野営所になったことがある。毛細血管状に複雑に入り組んだ低層アパートメント群に、渋谷で暗躍していた麻薬ブローカーが潜伏しているとかで、私の家の周辺に非常線が張られたときの話である。 
 時は6年ほど前に遡る。最初の兆候は、刑事の聞き込み調査に始まった。
「お宅の周辺で、この男を見かけませんでしたか?」
というように、本当にテレビそのまんまで、警察手帳を見せた刑事が挨拶にやってきたのである。被疑者は東南アジア系の見るからに怪しいアロハシャツの男。ご近所の多国籍化が始まりだした段階で、どの顔を見てもみーんな同じ顔に見えていた私は、素直に「わかんないっスねー」と答えていたのだ。そうしたら、それから3ヶ月ほどしてそんなことも忘れかけた頃、夜中になると外がガヤガヤと騒がしくなる日が続いた。御存知の通り、私の家のオヤジは相当の神経質で、夜中にトイレに降りただけで(オイラの部屋は2階・トイレとオヤジの部屋は1階なのである)目を覚まして寝られなくなるような人である。当然、外の騒ぎにブチギレし、「こんな夜中になぁにを騒いどるんだぁ〜!!」と、怒鳴りに出てしまったわけです。したらば、ガヤガヤと騒いでいたのは日本国家の刑事様方で、無線で連絡を取りながら隠密に非常線を張っているとの事だったのである。それにしちゃあ、騒がしすぎたのだけれど。(苦笑)
「あらららら。」
 そーいうワクワクするシチュエーションに弱いオヤジは(火曜サスペンスがお気に入り)、とりあえず説明を求めた後、「提供します」とか言いながら無理矢理に台所に刑事を常駐させ、至極ご満悦で当事者の仲間入りを果たしてしまったのである。なんともハタ迷惑な……。
 まぁ、刑事様にしても悪い条件ではなかったらしく(違和感無く張り込みができるので)、私のウチの台所で、ゴショゴショと夜通し作戦を練っていました。で、4日ほどして、見事に容疑者の身柄を拘束し、我が家にも平穏な日々が戻ったわけですが、後になって事情を聞いてみると、なんとまぁ日本警察のすごいことが出てくる出てくる。
 まず、衛星写真の精度が素晴らしく、都市部では人が1人入れる隙間(私有地の庭先を含む)は全て網羅しているという事らしい。(本当なんだろうか?)実際に、アジトを囲んで人が入れる隙間を見渡せる場所に刑事が張り付いていたため、私の家の周辺が騒がしかったのだという。(地理的に私の家は毛細血管の要衝にあたるらしい)1人を捕まえるにしては大人数だったが、逃がさないようにするにはある程度の人数は必要なのだろう。そのへんは人海戦術である。
 でも、空中写真を元に作られたという地域MAPの正確さには驚かされた。恐るべき事に、子供の頃にポコペンや警泥で走り回った狭っこい壁や屋根までも、そのカバー範囲として赤く塗られていたのである。でも、なんかそこまで詳しいと怖いよね。


 また、『刑事』という職業も、やっぱり精神的にキツイ職業でしょうね。もともと誰かを疑って掛からなければならないし、面が割れてはイケナイというのもあるから。
 そんな刑事さんの御厄介になってしまった話を、一つ。これまた古い話になるけれども、昭和60年10月10日に私の家を襲った不幸な事故の話です。


 天気の良い日だった。私は布団干しを手伝った後、のんびりとした午後を過ごすべく、ベランダに干した布団の脇で漫画誌を読んでいたときだ。
「恩田さん!恩田さん!大変だよ!!」
外から大きな声で叫ぶ、近所のおばさん尋常でない声が、切迫した事態を告げていた。
 おばさんは、動転した様子で私の祖母の家が火事で燃えていることを捲し立てていたのである。反射的に駆け出す両親。祖母が借りているアパートまで、実家から徒歩で5分程の場所だった。小学生の私が必死に走っても、両親に追いつけるはずもなかったが、尋常ではない雰囲気を感じた私と兄も懸命に走った。
 現場についた時は、既に火事は鎮火されていた。「火事」という程燃えているわけでもなく、消防から「小火」という説明があった。延焼などは全くなく、燃えたのは祖母の部屋のごくごく一部。普通なら誰1人死ぬような火事ではない規模だった。
 しかし、祖母は残念ながらその火事で他界していた。祖母は、軽度ながら身体障害者で車椅子生活をしており、逃げることができずに煙に巻かれたのだという。原因は仏壇に線香をあげようとして蝋燭が倒れたこと。不自由な手では火を消すこともできずに畳に火が移ったのであろうというのが消防の見解だった。祖母の亡骸が丁度畳の火を消すように倒れていたため、類焼を免れたのであろう、とも付け加えられた。
 現場には近所の野次馬が取り囲み、鎮火した後も祖母の部屋からは白い煙が不気味に立ち上っていた。その光景と絶望感は、今でも網膜に焼き付いて離れない。
 障害は脳溢血で起こった後天的な物であったが、部屋数が足りなかった私の家に住むことが出来ず、やむを得ず独り暮らしをさせていた。もちろん、毎日ちゃんと朝昼晩の世話に通っていたが、両親の自分達を責める姿は痛々しく、地を噛む程の口惜しさが子供の私にまで伝わってきたのを鮮明に覚えている。
 夕方のニュースの1つとして簡単に報じられた祖母の死、お気の毒と連呼され、密かに噂が飛ぶ近所の好奇の目、目、目……。


 その痛ましい出来事がまだ収拾もつかない当日の夕方、突然、彼らは家にやってきた。彼らは丁寧に自分が警察の所属であることを述べ、事態を飲み込めずに唖然としている両親を、事も無げに警察へと連行したのである。
 実母を失った動揺を拭いきれないうちに、彼らは両親を“事件の参考人”としての事情聴取を行った。これは私が高校になってから聞いた話だが、それはもうひどい仕打ちだったそうだ。祖母にはささやかな保険金が掛けられており、障害者だというのに独り暮らしをさせていたこと、自分が不自由なのに仏壇に線香をあげようとしたことなどが不自然であるとし、両親は『実母殺し』の嫌疑を掛けられたのである。動揺する父と母を別々の取り調べ室に分け、強い口調で尋問が行なわれたという。一見してどこにでもいる普通のおじさんだったそうだが、その迫力たるや大変なものである。父親はその場で激昂する精神力は残っていたが、やむを得ぬ事情があるとはいえ、母は祖母(実母)を独り暮らしさせてしまったという負い目もあり、尋問に耐えられずにその場で気がおかしくなってしまった。母は1人で歩くこともできなくなり、父に抱えられて泣きながら警察から帰ってきたことを覚えている。いくら疑うことが商売とはいえ、あまりにも酷な仕打ちである。人道主義ではやっていられない、その現実に、私は今でも小さな悲しさを覚えずにはいられない。
 そして、いかなる宗教も、所詮は人の作り上げたシステムなんだということを痛感した。皮肉なものだ。祖先の御霊を尊ぶ祖母の祈りが、結果的にその細い体を焼き焦がすことになったのだから。宗教全ての否定はしない、しかし、文化や倫理道徳としての宗教の果たす役割になにがしかの意味を見いだすことは出来ても、根本的な魂の救済について、この期に及んで何をどう信じろというのだろう。極楽往生を夢見るには、この現実は重すぎる。
 私は俗物だから、すべての人を信じ切るほどの徳もなく、かといって人を疑い抜けるほどの確固たる信念もない。どこまでが正義なのだろう。そして、どこまでが人道の中道なのだろう。事件の数だけ悲しみがある、その重荷を背負い続ける覚悟を持って、人を裁く側に立って頂きたいと切に願う。法が正義なのではなく、常に人道の中道を重んじられるような、そんな人は確実に減ったと思います。不祥事云々を批判するのは何も公的立場に限ったことではなく、私達人一人一人のモラルとして、今の社会には足りないものが多すぎる。そうは思いませんか?

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初出:1998/07/15 niftyパティオ「来来軒」
改稿:2001/02/22 HP遊覧航路                       
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・人間、生きていく中で何回か、
 痛ましい事件や事故で大切な人を失う時が訪れると思います。
 その時に何を思うかは本当に人それぞれだけれど、
 「当事者以外がとやかく口を出すべき事ではないこと」
 それだけはハッキリしていようかと思います。
・ただ、いかなる過去を背負っていようとも、
 それを吐き出してくれることは、
 友人として、とても嬉しいことだとも思います。
 痛みをすべて肩代わりすることは出来なくても、
 また、同じ痛みを共有することも出来なくても、
 「痛んでいる傷があること」を知ることが出来るから。
・不謹慎な冗談も嫌いではないし、
 傷を単なる負い目として抱え込みたくない。
 だから、出来るだけ私は生傷をさらけ出す。
 露悪趣味と言われようが構わない、
 傷を持たずに一生を終える人間なんて居ないんだから。