ほぼ月間webちょっ? 第9号:2002/09/20 目次 @ヨロコビの歌 Aサンダル同盟 @ヨロコビの歌 嬉しい時、つい口ずさんでしまう歌がある。 それはいつも同じではなくて、 お気に入りの楽曲の一部だったり、 CMソングだったりと様々だけれど、 気がつくと口から零れている旋律たちが、ある。 「御機嫌ですね。」 思わずそう言いたくなるほどの笑みを浮かべ、鼻歌を歌う人々。 「そぅ?」とか「わかる?」なんて言いながら、 照れくさそうに笑うその雰囲気は、 いつもなんだか、頬笑ましい。 でも、 鼻歌を聞かれてしまうと、やっぱり、すこし恥ずかしい。 でもそれは、たぶん音程なんかの問題ではなくって、 浮かれている自分が、なんだか、照れくさくなってしまうからだろう。 頬笑ましくうつるのは、そうしたココロの軽やかさが見えるから、かな。 そんな風に心が軽いとき、 心得のある人は楽器に手が伸びる。 お近くにいませんでしたか? 学生時代、 どこの部室にでも無造作に転がっていた、 弦の弛んだアコースティックギターを友とするような人が。 もしくは、 捨てることさえ面倒とでも言いたげに置いてある、 あさってに空気の抜けるオルガンに骨を折る人達が。 聞こえてきませんでしたか? どこからか流れてくる、 決して巧いとはいえない、 それでいて、味のある旋律と歌声が。 そして何かの拍子に、 その音色がココロにコトリと嵌ることがありませんでしたか。 無意識に頭でなぞる旋律に、 自然と口から紡がれる小さな歌。 私には楽器の心得がなく、 よく友人にせがんでギターを弾いて貰っていました。 酒が入ってしまうと、恥ずかしさなんてどこへやら。 大きな歌本を広げて、 特に学祭では夜通し歌っていたなんてことも。 吹き抜けのある大校舎のホォルで、 たった1つのギターで歌った見知らぬ酔っぱらい学生数十人。 声を合わせることの震える程の感動は、 ある程度、心を合わせることと似通うからでしょうか。 小学校の頃に通っていた修道院で、毎週歌っていた賛美歌、 その“歌う”ことが持つ意味を、 この時始めて体に染みて感じた覚えがあります。 カラオケだって大好きだけれど、 表面だけを追う歌には、深みがない。 心の底から“歌う”ということ、 それが大勢になった時のチカラはその後、体験していない。 それはライブとも明確に違う。 それぞれの目に見えぬ深い想いが重なるときに起こる昇華。 そしてその後、小さなシンセサイザーを1つ買い、 また、仕舞い込んでいたオカリナを取り出して、 自分なりの音を紡ぐすべを身につけてみた。 でもそれは、 大勢の歌を紡ぐことではなくて、 小さな小さなヨロコビの歌を愉しむに過ぎないけれど。 人前に出せない腕前だって、 心を弾ませる趣味としては最高だ。 小さな鼻歌が思わず零れた日には、 そんなヨロコビの歌に感謝しつつ、 ちょっと土手まで寄り道でもいかがですか? −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Aサンダル同盟
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