ほぼ月間webちょっ?

第6号:2002/01/31

目次
 @水のチカラ
 A手のチカラ


@水のチカラ
 
 私は【湧き水】が、好きだ。
 特に、人の手の加わっていない、
 自然のままの小さな湧き口が、好きだ。
 どこまでも深く碧い泉や、
 苔生した巨樹の根の股より流れ出す泉、
 水面が盛り上がる程の水量を誇る大湧泉もあれば、
 苔岩を舐める程度の湧き口もある。
 その多彩な表情を楽しむため、
 旅行先の土地土地で見かけるたびに、
 足を止めることがよくある。


 そしてそっと手を涵し、
 掬い上げた水で手を清め、
 口を漱いで清め、
 そして初めて、喉を静かに潤す。
 古式ゆかしい礼節の作法は、
 体の中に凛とした精気を取り込む、
 ちょっとした儀式のようでもある。
 その適度な緊張感も、心地よい。


 世界中のどんな土地柄であれ、
 生命(いのち)を繋ぐ「水」に、
 特別なチカラが宿ると考えることは自然な事だと思う。
 太古の昔から、
 神格化された泉の昔語りは枚挙に暇がない。
 
 キリスト教の聖水の思想も、
 ギリシャ神話の泉の妖精(ニンフ)も、
 神道の禊(みそ)ぎや、
 先程紹介した御手水の作法まで、
 水に宿ると信じられている様々なチカラを、
 泉を見るたびに、改めて感じるのは私だけだろうか。


 単なる原始的な自然崇拝(アニミズム)と笑うのは簡単だ。
 だけど私は、
 その清冷な雰囲気に感じるものがあってこそ、
 人間なんだと思う。


 日本では、ほんの小さな泉にさえ水蛇のお社を見ることがある。
 昔話を紐解いて、読み解く物語に俗世を感じつつも、
 巨樹の枝より零(こぼ)れる光を浴びながら、
 泉の畔(ほとり)で物思いに耽るのも一興だと、思う。


 ただ、最近のいわゆる「名水崇拝」と混同しないで欲しい、
 大きなポリタンクを抱えて車で乗り付けるとか、
 さも成分の違いが解るかの様に飲み比べたりもしない。
 ペットボトルに詰め込まれた名水など、
 かえって興醒めするばかりだ。


 美食への「欲」、
 効能への「欲」、
 観光名所となってゴミに埋もれてゆく湧水を見るにつけ、
 相変わらず悲しい人間の性(サガ)を見せつけられ、悲しくなる。


 口を漱ぎ、喉を潤すほんの一杯の水があれば、いい。
 対峙する自然への畏怖と敬意を、
 そして、決して貪(むさぼ)らない謙虚さを。
 それが、水のチカラを受け取るための、
 秘訣だと思うんだけどな。


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A手のチカラ

 今、目の前にある、
 ごくありふれた私の手。
 生命線やら運命線やら、
 なにやら意味あり気な皺が、年相応の年齢を刻んでいる。
 「歳、とったよなぁ。」
 しみじみと感じてしまうのは、やはり歳の証拠だろう。


 しかし、
「他人の手を見るのが好き」という女性は意外に多い。
 私の付き合った数少ない恋人も総じてそうだったが、
 言われてみると成る程、私も他人の手の感触は、好きだ。

 大人になればなる程に、他人との肌のふれ合いは減る一方。
 通勤電車での抗えない密着は御免被るが、
 独り暮らしの身ともなれば、
 やっぱりそれなりに人肌も恋しい。


 そんな枯れた日常の中で、
 私は、なんの気無しに触れられる手が、
 逆に一番、大事な場所に思えてならない。
 ある意味、心に一番近い場所の様な気がするからだ。


 陽気に肩をポンッと叩く手、
 励ましながら胸を叩く拳、
 笑いながら脇腹を軽く突く肘。
 それで人は、少しだけでも元気になれる。


 頬を触る手、
 髪を撫でる手、
 背中や肩に回す腕、
 唇をそっと塞ぐ指。
 その秘密の重みは、密かな心の重みと同調(シンクロ)する。


 華奢な手、ゴツイ手、
 凍えそうに冷たい手、
 包み込むように暖かい手、
 その不思議な重みを感じたときから、
 小さなチカラが、重みに宿る。


 ココロをつなぐ、小さな手。
 だから手だけは、大事にしようと思う。
 決して綺麗な手ではない、
 傷だらけ・荒れ放題の手だけれど、
 いつまでも穏やかで、優しい手でいられるように。


 そしてまた今日も、
 私は静かに、じっと手を見る。


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<note>
・目で見える物だけが真実じゃない。
 そんな人間味のある謙虚さを、最近忘れていた気がします。
 チカラのシリーズを書いていると、
 なんだかいつも、少しだけ初心に戻る気がするのは、
 そんなことを思い出すからなんでしょうか。
・今回のシリーズは、
 自然が作り出すチカラと、人が作り出すチカラ。
 伝わればまた、幸いです。