webちょっ?
創刊号:2001/08/08

目次
T:ちょっといいですか? 
 @「Onanistic Personality(自慰行為的人格/露悪趣味人)」
 A「貧者の自尊心(プライド)」


<ちょっといいですか?編>
@「Onanistic Personality(自慰行為的人格/露悪趣味人)」

「エッセイなんてものは、言葉の掃き溜めだ。」などと言う人が居る。
「自分の言いたいことを、適当な言葉で正当化したような、
 言葉遊び的日常駄文など我慢ならない。」と。


 その通りだなぁ。と、思う。
 しかし一方で、じゃあ、どうやって表現するんだよ。とも、思う。
 まぁ、このような言葉を吐く人間の底が知れると言うものであるが、
 敢えて言うなら
 「人の日常が面白くないなら、つまらない一生を送ってきたんだろうな」
 なんて、思います。
 だって、日常的に人と接していて、
 普段に出てくる会話って、そういう話題が多いじゃない。


 何げに気になる、他人の考え。
 何げに面白い、他人(ヒト)の失敗。
 それを話すから、日常って楽しいんじゃないかな。
 上のような独りに慣れた寂しい発言なんかしてないで、
 ちょっとは御馬鹿になってみなさいな。
 その方が絶対に楽しいって。(笑)


 さて、今回から形式を新たにした「webちょっ?」ですが、
 日常で出くわした様々な怒りや疑問への、
 恩田の個人的な鬱憤晴らしとして、
 表題通りとにかくオナニスティックに書き綴る、
 誠に浅薄な企画であります。


 割と辛口な所もあり、
 笑えるような物もあり、
 まぁ、内容はいわゆる「ゴッタ煮」になりますが、
 オイラの垂れ流す露悪趣味の馬鹿さ加減を、
 どうか冷笑してやって下さいな。


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A「貧者の自尊心(プライド)」
 
 昨今、「プライドを傷つけられた」なる言葉をよく耳にします。
 「それこそ、プライドの欠片もない発言じゃないか。」
 と、聞く度に少し、首を傾げたくなる。
 
 冗談で軽口を叩いているのなら救いはあるにせよ、
 どう考えても本気(口論の最中だったりする)の時に出てくると、
 【見当違いの美学に酔う貧者】に哀れみさえ感じてしまう。


 そもそもプライド(自尊心)というのは、
 自分を律する時、自分を叱咤する時に使う言葉である。
 例えば
 「職人のプライドに懸けて、妥協しない。」
 「文筆家のプライドに懸けて、協賛者に安易に迎合しない。」
 なんていうのがそうだ。
 自分の確固たる信念と経験に裏打ちされた、
 自分の生き方としての美学を貫くための言葉でありこそすれ、
 間違っても、自分の都合の悪い時の自己弁護で終わる言葉ではない。


 とまぁ、ここまで切り捨てた意見を述べたところで、
 「人の無知を、馬鹿にするもんじゃない」と、
 この手の言葉に対する批判を許容しない人もいるだろう。
 それもまた、一つの考え方だとは思うけれど、
 それはあくまでも、無意識に使われる言葉の場合。
 ここでは、
 きわめて意図的に使われる言葉の意味を履き違えているのだから、
 批判を加えるだけの意義があると信じる。


 今の御時世、
 とんだ「傷つけられた」ブームである。
 そんなちっぽけなことで揺らぐ貧しい性根に、
 自尊心などという言葉は勿体ないことこの上ない。


 自分の性格を“キャラクター”として人に押しつけるのは筋違いである。
 何か一つ文句を言うと、
 「俺はこういう性格だから」と公言してはばからない輩が居る。
 努力を怠った上の恥の上塗りとしか思えず、
 人の意を介さない度量の狭さだけが、印象として残る。
 更にそれを諫めると、件の安っぽいプライドを振りかざす。
 プライドというのは、偏屈で頑固ということではない。
 悪いことは悪い、改めるべきことは改める、
 自分の良心に誠実に向かい合って、はじめて生まれる心。
 もしも、
 その核となる信念が自分を押しつけるだけの存在であるならば、
 そんな腐った美学は潔く切り捨てるべきである。
 
 それに、
 「プライドを傷つけるのは、自分以外に居るはずがない」
 自分の信念に反する行動を起こした時、
 自分を律する法を破った時、
 それを悔いる心が、自尊心なのだ。
 
 改めて言うまでもないことだが、
 自尊心とは、自らを常に高みに導くための言葉である。
 より誠実に、より真っ当に、より優しく、そして、より剛健に。
 このように書くと偽善的に、宗教的に捉えられがちだが、
 人を攻撃する(外圧的な)言葉ではなく、
 自分を戒める(内省的な)言葉なのだ。


 「今時、精神論など流行らない。」とも言われる。
 悪かったな。
 でも、
 本当に、そうか?
 
 この社会、
 「何が正しいか?」
 という判断基準(モラル)を持つ人が極端に少なくなってきた。
 それをろくすっぽ考えもせずに、
 ちょっと心の問題に触れれば、
 「精神論・観念論」と、まぁ、うるさいうるさい。
 信念も美学も持たない人間と、
 形式的な、主観を交えない空論を交わすのは性に合わないのだが、
 一つの問題を吹っ掛けることで正当な論議が起こるのであれば、
 こちらとしては書く意義もあると考える。
 そもそも、
 予め用意された答えに落ち着くのは、議論じゃない。
 考え方に「勝ち負け」を求めるだけの議論など空論だ。
 精神的に血肉になる考え方を植え付けない教育が、
 駄目な大人達を生み出したんじゃないの?
 それとも、そんなことにも気付かないほど馬鹿なのか?


 C(コンプレックス)の裏返しでしかない偽の自尊心、
 そして、
 薄っぺらい癖に高慢な、
 自我(エゴ)の肥大に他ならない偽の自尊心。
 他人に対する稚拙な甘えでしかない恥情を、
 「自尊心」と偽って振りかざすのは、
 薄っぺらい人格を路程しているに過ぎず、哀れでさえある。


 人間としての寛容のなさ、己の器の小ささを、
 更に言えば“身の程”を弁えない大人のなんと増えたこと。


 最後に。
 「お前がそれを言うか?」という問いに対しては、
 面目ない。自分もまだまだです。
 自分が凹んでいる時に、
 周囲に当たり散らしてしまう自我の甘えを、
 未だ、心の内に封じ込めることが出来ない。
 悪戯に積み上げた内容の無い経験にしがみついて、
 呆れる程に固執するだけの捻くれた「偽の自尊心(エゴ)」。
 どれだけ人を巻き込んだら気が済むのかと、
 ある種の後悔と共に痛感する事は数限りない。


 ただ、畏れ多くも雑文を書き散らす人間として、
 自己に批判を加えることだけは、常々忘れないで居たい。
 それが、心貧しき私なりの、
 最低限の自尊心。


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<note>
・物事をハッキリ言うことは全て良いことだという、
 暴力的な思想が蔓延して久しい。
 相手の置かれている状況や心象を考えず、
 思うがままのことを口にすることが、
 全て相手のためだと勘違いする輩が量産されている。
・「真実が全て正しいわけではない。」
 そのことを弁えないで、
 無遠慮な正義を声高に振りかざす人間のなんと増えたこと。
 人間の心の機微は矛盾に満ちていて当たり前、
 割り切れずに苦悩する人間性を、
 どうして認めようとはしないのだろう。
・言葉で想いの全てが伝えられれば苦労はしない。
 「俺の言うことを100パーセント汲み取れよ」なんていうのは、
 今更言うまでもない無理難題だ。
 だからこそ、無意味な自尊心にしがみついちゃいけない。

 そう。
 真実だけが、言葉じゃない。